力をもらう
これは当たり前のことなのですが、人間は、生まれたらいつかは死ぬことになっております。
しかし人は人生の中で病気になったり、怪我をしたりすると、なんで自分だけがこんな目に遭わなくてはならないのか、と思ってしまう。これも当たり前です。
しかしここで不平不満をとやかくぶつぶつ言っていると、逆にこれが災いとなって、そこに足踏みをしてしまう。
最近も自殺する人は増えておりますが、死ぬ前にもう一度自分自身を振り返って欲しい。
僕がはじめて自殺の御遺体を見たときにも書いたが、かならずやなんらかの「しがらみ」が残っている。
それに、家族がいる人なら、人間として今、自分が味わっている苦難を、同じように子どもに味合わせてしまうかもしれない。だから、「俺は今こいつらに親の見本を見せてやる」と思い切って決断してみる。ただ悲観しているだけでは、どうしようもないし何も変わらない。
そもそも人の一生の価値など容易に計れるものではない。
人によっては、残された家族や友人によって計られると言い、信仰の厚さによる、愛による、時には人生に意味など全くないというものもいる。だが僕は、互いに認め合える人物が計り合うのが一番だと思っている。
さて、今回の鹿児島最終日。
共に分かち合える人物に出会えたように思えた。そして出会いの大切さを改めて感じさせていただけたように思う。これは冠嶽山鎭國寺頂峯院にお参りさせていただいた事による。
はじめて訪問させていただくこのご寺院についたとき、ひとりの行者さんに物静かに、いかにも輝かしい光を与えてお迎え入れしていただけた。多くの寺院様を訪れさせていただく中でも、今回のように睦み合えるように、また慈悲に満ちたお心、まるでお不動さんのように光をあたえていただけたのは初めてのこと。
普段は施錠されている護摩堂の中におられる黄不動尊にお参りをさせていただき、しばらくご一緒させていただけたのです。
この方のひたむきなご接待をもってお参りをさせていただけたことで、やっぱり人は死に様よりも生きざまが大切であることを、そして人生を悔いなく楽しく生きるのに、遅すぎることなど決してないことを再認識させていただけたように思えた。あらためてここに感謝したい。