カテゴリー別アーカイブ: 不動明王

長久寺 (九州36不動霊場めぐり 12番札所 )

「宮崎といえば新婚旅行」を連想するのはボクやボクよりも少しお歳が上の人、若い人ならばむしろミヤザキは、東国原英夫知事が顔となり、新しくクリーン〜おもてなし日本一の宮崎といったイメージへと変化してきているのでしょうね。
ボク自身もこの南国の国は、訪れる度に楽しみが倍増する場所。

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潮満寺(九州36不動霊場めぐり 13番札所 )

碧い海。逆白波の寄せる浜。そして果てしなく続く海が霞のなかでも広いことが判る。
風光明媚な日南海岸こそ天下の絶景であろう。

九州三十六不動霊場巡りは宮崎県で二カ寺目となった潮満寺はこの美しい海岸の見える唯一のお寺でもある。
寺院の住所「油津」という地名の由来は、油を流したように波静かな港とも、又は、鵜戸山吾平の津とのいわれもある。

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極楽寺 (九州36不動霊場めぐり 14番札所)

本日より宮崎県、それも南部の大隅半島の中ほどに大きくえぐられたように存在している志布志湾。
この湾にそそぐ福島川の上流部分にひらけている串間市だ。
串間市は、王朝時代にあった「櫛間院」(周囲を垣で囲まれた建物)を復活した地名で、櫛間が転じて串間となったらしい。
その中でも、特に北方では穏やかな農村地帯が開けていて、その水田などが拡がっている一隅の森に極楽寺があった。

日向ぼっこをしているチョロにお出迎えいただいてから、本堂に入らせていただくとご住職に歓待いただいた。

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高野寺 (九州36不動霊場めぐり 18番札所 )

九州の博多相談室に朱印軸を額装して祀らせていただこうとの思いつきで始めた九州三十六不動霊場めぐりも、残る札所は8カ寺となった。

博多相談室に朱印軸を祀らせていただく事。
相談室にお越しになる方々はよりよい生活を望んでこられるわけで、陰ながらも更に幸せな生活を送っていただける祈りのため、また、今回の巡礼ではこの世に生を受けた恩を感じつつも、小生が母親の出生地からも九州へのご縁を感じ、ご先祖様への供養という意味もある。

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木原不動尊 長寿寺 (九州36不動霊場めぐり 19番札所 )

不知火海に突き出るように位置している宇土半島。
その根占に位置している富合町木原山は、別名を雁回山とも呼ばれている。
伝説に、鎮西八郎為朝が山頂に居城を築き、豪弓をもってあたりを威嚇していたので、空に舞う雁もこの弓を畏れて迂回したことに由来しているとの事だ。

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大慈禅寺 (九州36不動霊場めぐり 20番札所)

九州のほぼ中央にある世界的にも有名な活火山と言えば阿蘇山だ。
最高峰の高岳のほか、中岳、烏帽子岳、杵島岳、根子岳を総称して阿蘇五岳と呼び、南北24km、周囲128kmの巨大カルデラの外輪を形成している。
火ノ国と称えられる熊本県は、この阿蘇山を東に城山など繁華街を中心に繁栄してきている。

創建は弘安元年(1278)。当時の地頭であった河尻左右衛門佐泰明が寒厳禅師に帰依して建てたとされる。
解脱門はこの寺の象徴とも言えよう、くぐると左右に六地蔵がみえる。
六道能化のこの菩薩は、儀軌において香炉、法珠、合掌、しるしばた、錫杖、数珠をもっている。
その先には、山頭火の句碑が建ち、大正五年に熊本に訪れた際の句が刻まれていた。

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蓮華院誕生寺 (九州36不動霊場めぐり 21番札所 )

熊本市に隣接している玉名市の霊峰小岱山(しょうだいさん)に世界一の梵鐘がある蓮華院誕生寺奥之院があります。
この大梵鐘は重量が37,5トン、京都から国道を通ってきたのですが、小岱山にある奥之院への狭い山道は、本当に急な坂道で曲がりくねった道で、小生が使用する1000ccのレンタカーはローギアのままでしたから、はたしてこの梵鐘はどうやって上がったのか不思議で仕方ない。

梵音には抜苦与楽・離業得脱(苦を抜き、楽を与える・業を離れ、解脱を得せしむる)の願いが込められているというが、梵鐘の存在がそう語りかけるからしばし前にいてたたずんでいた。

すると鐘を突かせていただけるという。

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龍照寺 (九州36不動霊場めぐり 22番札所 )

島原駅のすぐ近くに五層の天守閣を有する堂々と聳え立つ島原城。
元和二年(1616)大和から転封された松倉重政が7年の歳月をかけて築いたもので森岳城とも呼ばれている。
以前の領主有馬氏はキリシタン大名であったが、松倉氏はこれに対し他に類を見ないキリシタン弾圧と苛政、酷税を領民に課したため、この城はキリシタン弾圧のシンボルとして領民から憎まれ、遠くローマまでその名が知られたという。


松倉勝家の時、島原南端口ノ津で発生した一揆はたちまち島原全島と天草に広がり、一揆軍は盟主に天草四郎を仰ぎ原城に立て籠もった。原城は松倉氏が島原城を築いた際、廃城とした城であるが、三方を海に囲まれた要害堅固の地にあるため一揆軍3万7千はよく戦い三ヶ月にわたり籠城し糧食つきた後、寛永十五年(1638)幕府軍の総攻撃に全員が戦死したと伝えられる。石垣だけが残る城址は史跡に指定され、十字架と天草四郎像が建っていた。

その海の玄関口である島原外港から雲仙道路を登ると、龍照寺がある。
東に向けて開けた境内は陽光を浴び、大きなお不動様にお出迎えいただける。
龍照寺にお詣りして、その規模の雄大さ、整備されている環境に驚いた。

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正覚寺 (九州36不動霊場めぐり 23番札所 )

不知足の者は富めりと雖も而も貧し、知足の人は貧しと雖も而も富めり

山門入口にある掲示板に掲示されていたから、ここが禅宗のお寺、それも曹洞宗の寺院であることを思い出した。

橘湾を臨む東長崎の発展は、矢上町を中心としていたのだろうと思う。
古くは長崎街道の宿場町として栄えたところで、路傍のたたずまいに往古を偲ぶことが出来る。
一帯は山に囲まれた市街とは異なり、平野部が諫早に向けて広がり、八郎川や現川の流れが港にそそいでいる。
寺域は東長崎支所の裏側にあってり、番所橋から旧道を入った小学校の奥にある。
創建は享保二十年(1735)、諫早藩の藩士である藤井氏の菩提寺として開基し、禅刹天祐寺の僧大亀圓晟大和尚が開山。

こうした関係から諫早藩の士が帰依し、のち壇野氏が寺領を寄進するに及んで寺門は殷盛した。

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五大力さんで大安心を得る

「笑うからおかしいのであり、泣くから悲しいのだ」と聞いたとき、悲しいから泣くのであり、面白いから笑うのだと思っていたので、考えてみればなるほどそう言うことかと思った。
なるべくは、形だけでも穏やかな笑顔でいたいから、まずは形だけでもそうありたいものだ。

笑顔でいれば普通腹の立つようなことがあっても、不思議と腹が立たない。
そうすれば後で後悔するようなことにもならずにすむ。

とはいっても、人間誰しも腹が立つこともある。
ただ普段怒りっぽいと、自然とその様な人相になってくるから注意もしたいものだ。

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