近畿三十六不動尊霊場会、春の法要は京都は醍醐寺で執り行われました。
日時:2006年5月16日 火曜日
10:30 〜 14:00
場所:第23番霊場 総本山醍醐寺
10:30 醍醐寺修証殿
11:00 法要 柴燈護摩 醍醐寺不動堂護摩道場
12:30 昼食 懇親会 三宝院白書院
参加者は、先達だけでも35名、総勢100名を超える大法要でした。
(小雨の中、不動堂へ続く列)
老子の古諺に、その光を和し、その塵に同ず、いわゆる「和光同塵」という言葉がある。
きらびやかな才智、智慧の光を和らげ、暈かし、他の人々には、そのことを意識されず、解らないように俗世間の中に入ってゆき、自分だけが清潔だといったような態度をとることなく、大衆の中に同化してゆかなくてはならないー。ということらしい。
(醍醐寺楼門)
孤高を排した思想であり、実に庶民的である。
仏教的に解釈すれば、佛が衆生済度のため、本来の輝かしい大日如来の智慧の光を押し隠し、衆生と変わらない姿で人間界に現れ活動することを意味している。
(先達諸氏)
光とは、才智、智識といったこと。塵とは世俗ということである。
要は、自分の才能をひけらかし、「おれが」「おれが」と、しゃしゃり出る生き方をしないということのようだ。
(麻生文雄管主修法による柴燈護摩)
他人の地位や境遇を羨み、他人を引きずり落としてでも、自分が取って代わってやろうとする、「おれの方」が「あいつ」より、智識も行動力も人望も上だと自惚れること、これを佛教では、「慢」といって戒められている。
また、一面、光塵とは、光る塵、あるいは、塵そのものの中に光があるとも解されないことはない。
人間界の衆生の一人一人は、無明の塵の如くか弱い凡夫かも知れない。だが、その凡夫の心の中にも、何か光るものが隠されているのではないだろうか。佛教は悉有佛性と教えている。どんな些細なものでも佛性がある。
雨の夜には月が無いという。しかし月が無いのではなく、月が雨雲に隠されているだけのこと。
「月なくも 月は照るなり 大空の 雲分けてみよ 月の光を」。
人間の色々な欲望の雲によって本来の光が見えないのだ。欲を取り除けば塵の中から光が現れてくる。
これを光塵といえるのではなかろうか。
小さな塵屑でもその内部のどこかに光を持っているものだ。
光塵とは、踏まれても、叩かれても、大衆とともにじっと我慢し、本来の自分を失わず、強く生きてゆこうとする。しぶとい雑草の精神といってよいのではないか。
近畿三十六不動尊霊場会が霊場屋さんの集まりにならないことを願いつつ、光塵たる思いを大切にしたい。
(三宝院白書院前)
懇親会の際、存じ上げないところでしたが大先達の基準を満たされたとのことで、家田荘子氏が大先達に補任されました。
おめでとうございます。
あと、シモさんとか前々回あたりに始めてこられて、すでに大先達になられた方が先達を代表してご挨拶などをされておりましたが、お名前もしっかりと理解していない面識のない方で申し訳ない、ここにお名前が記せませんでした。