本日は、天気も大変よろしいので、少し汗ばむような日ざしと気温です。
例年ですと散っているここ御室の桜も、こちら蓮華寺のまだ元気よく咲き誇っているのが印象的です。
久々のお参りをさせていただきましたこのお寺は、近畿三十六不動尊第十五番霊場の 五智山 蓮華寺 。
まずは、五智如来さんにお参りをさせていただきます。
珍しい砂岩石を刻まれたのは木喰上人なのですが、雨や風に晒されながらも台座にドッシリと、まるで来るのを待っていただいていたように、温かく見守っていただいています。
昭和三年にこちらの場所に堂宇と伽藍を移す以前は、こちらにお寺はありませんでした。
また、写真の五智如来も昭和三十三年に音羽山蓮華寺より移されてきたものです。
写真の向こうから、釈迦如来・阿弥陀如来・大日如来・寳生如来・薬師如来。ごめんなさい、これでは判りませんね。次回はお釈迦さんや阿弥陀さんの方からも撮影するようにします。
お線香やロウソクは、真ん中の大日如来さんの前にあります。
不動堂は、向かって右にあります。
中に入りまして、五智不動明王の近くまで近づきますと、やはりお出迎えをしていただけたように思え、ご無沙汰を心の中で侘びながら、お参りをすまさせて頂きました。
あと、略史がありましたので、引用させていただきます。
■ 五智山 蓮華寺 ■
– 後宇多天皇旧御所 –
[略 史]
大同元年(806)
中国より帰朝された弘法大師が北嵯峨(現在の後宇多天皇
御領地内)岩屋の中に不動明王を威得され石に刻んで、
きゅうりふうじの秘法を残された。天喜五年(1057)
藤原康基は此の不動尊を奉祀すると共に弥陀・観音尊の諸
像を安置し、周防国鷲頭の庄を寺領として付し蓮華寺を建
立した。徳治年中(1306〜1308)
後宇多天皇は東寺・高野山に匹敵する構想を以って当山を
中興。蓮華峰寺を改め給い自ら住職となり理趣経の根本道
場と定められたが、応仁の兵火(1467)にあい荒廃の
余儀なき歳月を送った。寛永十八年(1641)
樋口兵太夫家次翁は仁和寺営覚深法親王(後水尾天皇皇兄)
の御応護により後宇多天皇の五智輪円の遺風を顕彰して鳴
滝音戸山に五智如来寺の石仏群像を造立。伽藍・堂宇を再
興して五智山蓮華寺と称した。
その後、乗円・曇寂寺の硯徳大学者を輩出し、法流の御家
元たる御室御所院家となり我が国に於ける法皇たる総法務
ノ宮(仁和寺ノ宮)の御指南役をつとめると共に、六十六
部の総本山として広く天下の尊崇を聚めた。昭和三年(1928)
中興第十八世僧正慈海大僧に依って堂宇、伽藍は現在地に
遷され、昭和三十三年(1958)檀家総代川本直水氏に
依って山上に取り残されて損傷甚しかった五智如来寺の石
仏群が台石と共に原形のまま、現境内に遷された。現在
真言宗 御室派 別格本山 近畿三十六不動 第十五番霊場
となっている。