京都のお寺には多くの名園があります。およその庭園は極楽浄土を連想して作られており、また、極楽は西方にあるともされております。従いまして、庭の水の流れにしても東から西へ流すことが定石となっているようです。
実相院のお庭は、世阿弥の孫で有名な庭師、又四郎が作ったという池水回遊式の園であります。
そして、この庭の水の流れは西から東に流れております。
西から東、つまり極楽の方へは流れないわけですから、当時、世間の批判は又四郎に集中いたしまして、その時に又四郎この様に申します。
実相院はお寺。寺全体が浄土。その浄土に西も東もあるわけがない。
まさに、とらわれない心です。
さて久々にまいりました実相院は近畿三十六不動尊霊場の中でも京都最北の地となります。
東山天皇の中宮、承秋門院ゆかりの実相院はいつ巡拝させていただきましても静寂な庭にお迎えいただくことが出来ます。
特に本日はそのお庭に春が宿っており、又四郎のような「とらわれない心」というわけにはまいりません。そこで、しばらく桜の舞い散るお庭の鋒にて座らせていただくことにいたしました。
その時間の中で思い込みましたのは「空なる状態」についてです。
前回こちらに巡拝させていただいたのは、雪ふりしきる厳冬の最中。
もちろん花を尋ねても、花はどこにもありません。これはとりも直さず「色即ち是れ空」。
しかし霞たなびく春が訪れ、この様に座らせていただきまして、冬には無く、枯れたとみえた桜の梢には、花がにっこりと微笑んでおります。これが即ち「空即ち是れ色」なのであります。
何事によらず、いつまでもあると思うのも、無論間違いですが、また空だといって、何事もないと思うのも基より誤り。いかにも謎のような話しですが、有るようで、なく、無いようで、ある、これが目の前で起こっている事。
山を下りまして、京都市内に入りますと有るものは、やはり有るのですし、無いものを求めても有るようで無い、これが世間の姿です。
因縁より生ずる一切の法はことごとく空です。空なる状態にあるのです。
まさに「樹を割りてみよ、花のありかを」でありました。
有名な『紅葉床』には、紅葉の色は映っておりません。ただ私の心には綺麗な紅葉色に映えた床があるのです。
近畿三十六不動尊霊場 大本山 実相院門跡(じっそういんもんぜき)
京都市左京区岩倉上蔵町(あぐらちょう)121
075-781-5464
なお最高のタイミングを求めて折られるなら夕暮れが特に素晴らしい。
紅葉のころ磨き上げられた美しい床に、やはり紅葉の照り返す美しさがある。これには息をのむほどである。