本日分の私のご用をほぼ終えました。
そこで本年の書き初めっぽく、六中観で何かしら書いておいて、また見直してみようなどと。
死中活あり
誰もその百年前を見たわけでないのに百年に一度など言われ久しいがしゃらくさい。人様のお役に少しでも役に立てればと続けてきた40年に未練はない。いついかなる変化の時にも退く決意を持つ事こそ安岡先生の身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、につながる意。ここにあらためて誓おう。
苦中楽あり
前回の朝生で大手への就職難に対したデモを起こした学生さんが出ておった。なにも大手に行く必要は無いだろうに中小零細で良いじゃないか。人をすがるのも良いけれど一番アタマの動くときだろう動かなくとも苦しい時には必ず良い知恵が生まれる新しさに逃げるのではなくだな。同じように年だからと改善に無関心ではイカン常に行う事だ。
忙中閑あり
心のゆとりならばテレビで漫才を観ることも含まれようけれど、暇つぶしの暇には閑は無い。閑をつくるには忙が必要不可欠の存在にあるのだ。この仕事をしているとついつい忙に追われて「暇」をつくろうとしていたのではないか。今年は特に仕事を離れているとき、これが閑であるか否かと問いかける自分でいよう。
壺中天あり
あらためて、料理でありとりわけて蕎麦であり酒でありこれらは人の為になると良いのであって本来ひとりの時以外は自ら率先して楽しむことを控えなければならない。むしろ本来は不動明王をとおした全国の三十六不動尊霊場について自らの勢いを増そう。
意中人あり
50になる人としてしてどうか。「我以外皆我師」「人は鏡」。いつでもどこでも誰からでも学び取れるほどの謙虚な姿勢で生きよう。小生は意中の人に多く恵まれている。果たさねばならない真の自由は義務の甘受の中にある。
腹中書あり
ここまで書いて、まぜ正月のテーマにこの「腹中書あり」を選んだの改めて思い出した。時に小生が何かの祈願をするときに護摩木にしたためる「信成万事」。これは信じれば成るけれど、憂うれば成らない、との相反する意味をふくめて記している。つまりは自ら信じる自信のを高め続けたいからであり、今年一年もそうありたいと思う。そのためには、致知出版の書籍に記されていた内容を呼び起こす感受性を呼び戻したい、いまその一心にあり。「素心学」の書籍をカバンに詰め込んだ。
まぁ、そもそも、そんな素敵な感受性なんてあったのか?とかってのはおいておいて。