玉嶹山 不動院 総願寺 (関東36不動尊霊場 第30番)

関東三十六不動尊霊場。2007年の6月6日に発願してからだから、ああ大変だ3年近くあいちまったが、鴻巣市へ行く用事もあり埼玉県の周辺霊場を目指す事にした。

まずは埼玉県加須市の代30番札所。総願寺。向かいの駐車場に車を止めて、まず目に留まるのは金色の山門。何か書いてあったが読む気になれず、そのまま朱印所へ向かう

関東三十六不動尊霊場・不動ヶ岡・不動尊・総願寺
すると、朱印場は、閉ざされておりチャイムを鳴らさせて頂くと、40代の女性が出てこられた。ご朱印をとお願いすると、はい、と、お立ちになったまま片手で朱印軸を受け取られ、そのまま戸を閉められてた。何かお声かけがあるとマズイのでと憶測し表で待っている間、蚊に二箇所も刺さされ(笑)、5分ほど待ったろうか、またも玄関の高いところから、立ったままで朱印軸をお渡し頂いたので、押し頂きました。

関東三十六不動尊霊場・不動ヶ岡・不動尊・総願寺
この様なとき、小生のような巡礼者は、自分に何か、と振り返ることが出来るから素晴らしい。「高いところから、無愛想にしていただけた」、「蚊に刺していただいた」とこうくる。高いところから、無愛想にして頂いたのは、反面教師であり、自分の誠が通じていなかったから、蚊に刺して頂いたことだって、それはお不動さんのお導きなどと。

とまぁ、この様な奇特(笑)な巡拝者ばかりではないから、せめて玄関で高いところからではなくて、低いところご接待がよろしく思う、個人巡拝者だからこそ、このようにブツクサ思う。いずれにしても、まさか蚊は別として人は鏡であるには違いない。

関東三十六不動尊霊場・不動ヶ岡・不動尊・総願寺
境内に総願寺の案内があったので書き記しておく。

不動ヶ岡不動尊総願寺の由来

仁和二年(886年)秋、第五十八代光孝天皇は重い病にかかられ、どんな名医、妙薬も少しも効き目がなく、日に日に御重態になられるばかりであった。そこで三井寺の開山、智證大師(弘法大師の甥)が、みことのりにより病気平癒を不動明王に御祈願申し上げたところ、たちどころに病気がなおられたので天皇は大師に不動明王の御尊像を刻ませ、同年冬、宮中の仁寿殿で開眼供養し、紫宸殿に安置して歴代天皇の守り本尊とされた。ある時、宮中の役人が明王の宝剣を持ち出して自分のものにしようとしたので明王を御守護申し上げていた堂守は、ある夜ひそかに明王を背負って生まれ故郷の吉見領へ逃れ仮堂を建てて安置した。

長暦三年(1319年)大洪水があり、付近一帯は泥海と化し御尊像はその流れの中を漂い、この地へお着きになられた。里人達は御尊像の尊さに一同ひれふして、明王をおまつりし当時岡村と言われていた地名を不動ヶ岡と変えた。

その後元和二年(1616年)に高野山の総願上人がこの地に来られ不動明王の御霊験を賛えて王寿山総願寺を建立し、明王をお守護申し上げた。

以来今日まで不動明王を尊崇して参詣する善男善女の数多く、関東三大不動明王の随一として、信仰を集めている。

関東三十六不動尊霊場・不動ヶ岡・不動尊・総願寺
お不動様のまえに、しばらく巡礼から離れている事のご報告とお詫びにはじまり、その他にも種々小一時間ほど詣らせていただいた。

こちらの御寺院の山門が金色であった時、小生は違和感を感じた。なぜだろうか、同じ金色の山門を通り抜けて一礼。寺をあとにした。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。