お誕生日の前日にこれ書いてます。あと30分ほどで誕生日。
こんばんは。ブログじゃごぶさたです。
瀬戸 啓一朗です。
さて、皆さんのとこは判んないですけれど。ウチの場合、夏の時期は朝から黙祷する事が多いですね。まず明日は、「広島原爆の日」です。
テレビ前の8時15分の平和の鐘に合わせて目を閉じるのです。
8月9日は「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」で11時2分です。
8月15日の「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」は、正午。高校野球中継のサイレンにあわせてテレビ前で黙祷。
そして小生、今年は7月の下旬でしたが、ある事を思いはじめます。とここからが本題です。
「恥ずかしくないか」と自問をする時間が急激に増える。
唐突ですが、祖父は南方戦線で戦死しておりまして、その亡き祖父に対しましてですね。自分の生き様に恥じるところは無いか?と考え込む事が多くなるのです
いやもちろん恥じることは無い、完璧な人間などもちろんこの世に存在はしておりませんが、小生なりに時間を無駄にしておりませんか?一所懸命生きてますか?人様のお役に少しでも役立つような事は?などと自分で反すうし始めるわけです。
とくに言って聞かされた記憶なんて無いのですが、三つ子の魂、のころ父母に刷りこまれたのかな?
ただ、小さな頃から、神さま、仏さま、ご先祖様、そして、日本の国旗を祝祭日には掲揚しております。
つまり、見えない何かに敬意をもって育ってきたわけではあるけれど、具体的になぜこの様に思うのかは今もって謎のまま。
だというのに、今までに。
このブログでも匂わせて書いたように、小生は何度か自殺を考えたことがある。
だけれど、小生の汚れた心の中にも、わずかな(自称)美しい魂が、一所懸命になって生かせようと隊伍を組むのですね、そして、これは回避されてきている。
しかし、今日こそはいっそ切腹してやろうかと思った。
この魂が日本の総理に否定された為だ。
これほど悲しい事はなかった。
だが、なにも誕生日前にやるバカもおるまい。
先ほども書いた、神さま、仏さま、ご先祖様、そして、日本の国旗にお支え頂いている美しい魂のお陰様で、やっぱり生き抜いてやろう、人生を全うしようと思いなおした。
見えない存在は、脈々と継がれて、小生というちっぽけな存在にも、美しい魂として存在している。
神さま、仏さま、ご先祖様と同じように、重要で尊厳な誇り「君が代・日の丸」を、「元気が出る歌ではないから」と昨日、菅直人が「君が代」を否定した事は、まったくもって許せない。
菅さんって昭和21年生まれの64歳でしょ。
人生60歳なんてのは、ハナタレだと両親に教えられてきていて、そんなハナタレがっ、崇高で象徴的な存在に対して知ったようなことを言いやがって、否定した。今もこれを考えると、バカにされた思いで胸が一杯になる。
いやしかし、明日は誕生日。
両親やご先祖様にこの身この体をいただいた感謝と、今までにも、そしてこれからも元気に活躍させていただけるだろう思いは、これまでも、今もこれからも、その見えない何かに感応して活かせ楽しませて頂いている。
だから、明日を起点に、さらなる決意を持って、朝の目覚めを迎えねばなるまい。
数えで五十だ。
しかし、こればかりはここで、すべて記すわけには行くまい。
ただ我が身を、しつけ直す。こればかりは、大切であるのでこれは記そう。
しつけとは、人を社会的な決まりに沿わせるような事であろうと思いますが、小生にはこれがほころんでおります。だからこれを自ら修正しようと思うわけです。
もっつぱらカタチからやり直してみようと思うわけです。
たとえば、第一に、朝晩の挨拶、第二は返事、そして第三は履き物を揃える、第四に掃除、第五に謙虚。
5年ほど前までは当たり前だった事なんだけど、やはり付け焼き刃だったんだろう、見事に剥がれ落ちてしまった。
メッキなんだ、身から剥がれて当然だ。
だから、この身この体、インナーマッスルからこれを身につける。これだけは、必ず守る。
そして、出来ればリアル本ももっと読まなきゃなぁ、いつもまでも、こげなボキャブラリーのまんまじゃ、孫に格好も付かん。
ただし明日の夜は、「誕生日の酒」をいただきにバー鞍馬に。