先日、不動尊の信仰をはじめた「きっかけ」を聞かれたので、自宅に近い北向山 不動院で考えてみた。
日々の仕事に追われ、寝たり起きたり食事をしたり、喜んだり怒ったり泣いたり笑ったりして一日が終わり、それを繰り返してやがて死ぬことを気づいたとき。
それに、人が言う言葉に愁声と歓声があることに気づいたときに、弱い自分というのは、はたしてどうすればよいのかと迷っていた。
これは今の自分もそのままで、なにも成長してはいないのだけれど、どこかの社長室に書いてあった、「冷眼人を見、冷耳語を聴く」という姿勢を、やはり忘れてはならないと考えた。
いまいる場所で身(行動)口(呼吸)意(こころ)を一点に集中して生きる事。
身(行動)口(呼吸、言葉)、意(こころ)をひとつにして生きるとは、願(本願誓願とか大志)に向かって進むことは、生き甲斐のある人生と言え、これを行うのが今であるとかいった事をよく聞く。
過去を思い出とし、後悔も懺悔も現在への基礎布石とするわけです。平たく言えば「過去の延長線上の今を生きる」というわけです。
しかし、その過去から現在、そして未来には、夢はもちろん不安や恐怖など振り回されるのかもしれない将来の思いがあります。
だから今を生きる。
今いる場所や人とのご縁こそが自分の大願誓願とか大志を果たす場所であるのです。
そしてこの場所において如何に生きるか。今の自分がいるここを守ろうとするとき、外から来る不安や恐怖よりも、内からくる不安や恐怖を防ぐ術がない事にこそ問題を感じたのです。
そのころ、「不動明王について」のところにも書いたように、次のような文章に出会うのです。
大日如来の命を受けて忿怒の姿をした不動明王は、襲いかかる災難に敢然と立ち向かって人々を守り、また悪行に対しては厳しく叱責して、教えを説いただけでは聞き入れようとせず反抗する者に対しては、目をむき、歯を出して、その威力で説き伏せる厳父のような働きをして導こうとする
特にこの下段をたいそう気に入って、厳父のような久保泰明住職とのお出会いとなる。これが不動尊の信仰をはじめた「きっかけ」なのです。