僕がはじめて自殺の御遺体を見たとき

部屋の壁に血しぶきが飛び散っていた。

風呂場でリストカットしたのだけど、痛くてもがいたんだと思う。風呂場から部屋の壁まで血だらけになっていた。

次の自殺現場を見たとき、ご遺体にウジ虫が湧いていた。そしてある部分が液体になっていた。

自室での縊死。ロープ代わりにしたベルトの下にそのご遺体は横たわっていた。

車の中で亡くなっていた時も腐敗していた。もう二度と見たくないと思いながらも、つい先日も見つけた。ただしその時はお亡くなりになる前、しかしまさに自殺しようとしていた簡易宿での事だった。

警察庁が本日2日に発表したところによると、日本国内で昨年2008年の1年間に自殺した人は前年に比べ844人(2.5%)減り、自殺者 32,249だったと発表した。しかし3万人を越えるのは、1998年以来11年連続だ。

苦しくなった心境の延長線上に自殺がある。

自殺を選んだ方々は、一所懸命につくりあげてきた人生を否定されたとき、自分なりの生き方がある意味否定された時、債務整理をしているとき、失恋での悩み。離婚による悩み。など人それぞれ、借金を保険金で返そうとして自殺した方もおられました。

僕だって生きる根性がゆらいでしまった事もある。だからまったくもって自殺する心境が判らないという訳ではない。しかし、いま生きていてブログなんかも書いていて仕事もしたりしている。嫌なヤツも居るし、つらい事もあるにはあるが。生きている。

苦しくなった心境の延長線上にある自殺とは、「人間関係地獄」の延長線上にある自殺と同じであると思う。だから僕は生きるための礎にするためにも「しがらみ」をもとめつづけている。

自殺企図者に必要なのは「しがらみ」

自殺を企図する人に必要なのは、軽薄でも何でも良い、「しがらみ」であると思う。しがらみさがあるからこそ、僕は生き続ける事が出来ている。そう思えている。

しかしなぜだろうか、家出人は自殺者は家族からのしがらみを避け、ひとり死ぬ事を選ぶ。

だから家出人を生きているうちに保護し、家族の元に戻したとしても、、依頼してきた家族と、家出人の会話はすれ違う。または、どちらかが一方的に話をして、そこに愛情あるしがらみは感じられない。そしてしばらくすると、スキを見てまた家を出る家出人が多い。

ひとりになろうとする家出人が悪いのか、いや家族の側が悪いのか。

それぞれの家族の中で構築されてきた「しがらみ」に、ズレやわだかまりを感じ始めたとき互いに思い悩み、どうにか家族全体の最善を見出そうとしてたはずだ。そして遂にその幕を家出人は引く事を決め家を出る。

そして家出人の多くは、家族以外とのしがらみも避けるようになり、ずいぶんと孤独になって誰からも価値がない人間であるようにも思いはじめる。

考えてみれば、死を決意するくらいだ、中学や小学校の友人に電話してみたりすれば、解決できる問題なのかもしれない。新たに誰かに「しがらみ」を持ってみるという事だ。

しかし出来ない。これはひどい鬱状態にあるからだろうか、若しくはただの思い込みなんだろうか。

もしもそうなら心療内科なんてのに気軽に行けば、精神病のそれではない、ものの見方や考えかたが改善されるような処方をしていただける。心療内科なんてのは、風邪を引いてないかに行くような感覚で、行けばいいと思う。

なんにしろ自殺はやめたほがいい

自殺体を見てきた僕が言うんだ、絶対に止めた方が良い。

死ねば身体は腐る。腐敗した身体からはウジが湧き、皮膚の中から腐り肛門から液体になった肉体が流れ出てくる。

自殺しても骨に皮がこびりついたような、冷凍庫の中で忘れ去られて1年ぶりに発見された冷凍餃子のような身体になるまで発見されない。

それに、その状態になったご遺体そのものの問題もある。

警察は自殺体の処理なんてしてくれないから、処理するのは身内となる。

ご遺体が自殺と判れば、警察はサッサと身を引き、身内がその片付けを担う事になるのです。すると悲惨極まりない状況が、またそこに生じる。

泣きながらご遺体に湧くウジ虫を手ですくい、ゴミ袋一杯にためていたご遺体を綺麗にしようとするご身内のすがた、これはとてもつらかった。

人は生きなければならない。かならず一人は応援してくれている人がいる。その人に気づかないのは、しがらみを広げる事を避けているからだ。死のうと決めた原因にある「しがらみの相手」は、その運命の人ではなかった。それだけの事だ。

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