今日の朝相談が終わってから、その相手になにか書きたくなって、手紙にしてこう書いた。
その中に、『人が一所懸命に生きている中でですね、まぁいかなる世界にも勝と負があって、勝つ者は強く。負けたらそこから去れば良い。負ければ、そこから去れば良いのに、そこに居つづけると、そこに根が張り、性まで生じる。いやこれを根性という。』と書きまして。今回はこの件です。
ご相談はもちろん「根性」について説明を求められて答えたのではありません。そこに居るべきかを迷っておられる様な、そんなご相談。これが終わった後で、こう思いついて書いたのです。
言うは易く行うは難し
しかし僕を知る人は、僕に、ここでいう根性の類が存在していない事を知っている。
僕がなにかに夢中になっていても、しばらくすれば、ピタリ止めている。
わかりやすい例ならこうだ。
お気に入りのお店があって、しばらくの間、連続で通っていたり…、いやまたは好意を持って、あれやこれやと気づかいをして可愛がっている人物がいたとしても、相手の「何か」に気づいたときに、その付き合いをもピッタリ止めてしまう。これに例外はない。
おまけに、いつまでたっても、子ども思考な僕というヤツは、それ以降に店なんぞ寄りつきもしないし、その相手に判りやすく顔にもいかにも嫌がっていますと表情を出すもんだから始末が悪い。仲直りの仕方などにもトンと興味もない。
固執しない格好良さではなくて、ただ根性がない
何度も書きますが、僕には根性がありません。
特に人間関係においては、そこに居つづける必要がないように立ち回って来た様に思う。人が好きで、あえてこちらからすり寄るというのに、100点の人物としてお付き合いをして減点してゆくソレではなく、ただあることに気づくと、その人への根性が無くなる。
しかし、朝の僕は人様に(は)冒頭のような事を書いていて、書いたときは、我慢なんてしなければ良い、根性なんてどうでも良い、なんて思っていたに違いない。エエカッコシイなのだ。だけどどうだろう。
僕にとってはもう、我慢も根性も本当にどうでもいい事なんだ。やさしさの延長線上にしかない様にも思える「我慢」や「根性」なんてのは、実はもうずっと前に飽きてしまったサガなんじゃないのかな。とも思える。
そうそ、「根性」という言葉で思い出したのだけど。
藤原さんというご夫婦がおられまして、このご夫婦のテーマが「ど根性」と「思いやり」なのですよ。実はこのバランスがとれている「テーマ」こそが僕にとっての愛して止まない人間味であって、目指すべきご夫婦(特に奥さまの思いやりが良い)なんだけれど、僕にとっての「何か」とは、つまり、人間関係の横柄・横着さとか、座布団の上であぐらをかくような人間性を感じた時に僕の根性はその努力を退けるのに違いないと思っている。
そして、僕のこのサガ最大の問題点は、一度決めたら覆せなくなるところにある。
事実、最近まで親しくしていた方に対する根性も、とあるお店にも同時にかき消えたし、ここ数十年とお付き合いを重ねられている人は少ない。消えれば覆せばよいのだけれど、誰がなんと言おうとこればかりはトラウマのようなもんだろう、他人についた傷は誰にも消せないのであろうし、自分自身でも無理なことであるのだから仕方あるまいな。
しかし、これらのすべてが自分自身の傲慢さ故に生じる無責任さであることに気づいたからこそ、『2009年春 僕のテーマ:【一生感動】感動のできるピュアな自分づくり。温泉でも行くか。』に変更したわけで。
先日に続いて、またも今日思いつきで書き始めてアップまでするのは、僕の人間関係が大きく変化しはじめている事に起因しているのだろう。また、これについては記してみたい。いささか今日も呑みすぎたようだから失礼いたします。