植物が生物であることは誰でも知っている。
しかし、これが「生きている」という視点で見られるかどうかは別だ。
山を見上げれば多くの木々。その木の命も、その下にあるだろう、草の命も、虫の命も、そして見上げた自分自身の命も、実は同じだと思う。家の犬の命も、野良犬の命もだ
人はこれらの生物を、自分にとって有益なモノ、有害なモノ、無関係なモノに大別する。そこに血縁度をもうひとつの基準にして命の価格表をつくり、他の生物の命を頼りにして生きてきた。
そう言う意味で最も効果なのは人様であるのだけれど、戦争を含めて正当防衛なら罪はないという価格表のオプションもある。
他のほ乳類や、鳥類は食用あるいは有害なものは安いが、絶滅が心配されて保護という新たな価格表もある。
は虫類、両生類のような冷血動物になると、ずいぶん安く見積もられ、魚にいたっては大物が釣れたと自慢話になるほどであって、つまりは命の価格表など統一されたものはないようだ。
小生が昔から付き合っている、被調査人は人だ。
もう27年間ほど…、今年のお正月三が日中にも、「ふたり」みた。
しかし、昔からずいぶんと様変わりしてきたものだ。
神さまから授かった子どもを家に置き去りにして、若いチャラ男と遊び回りラブホテルにシケコム主婦など、いったいイクラなのか。そして「依頼者のやさしさ基準」は高まるばかり。
最近では高級料理のお陰もあって、路傍の草にも価格表が出来たようだ。
これとチャラ男、子どもを置いてラブホにシケコム主婦の価格は並ぶ事など、あっていけないが今の僕にとっては同じ。