追い山の起源

明日から本番の博多山笠。
今日の博多も蒸し暑い。

博多祗園山笠には「元気に夏が越せますように」という願いが込められている。
水道も、冷蔵庫もエアコンもなかった時代、赤痢やコレラなど、その時としては恐ろしい疫病が流行したから、今以上に神仏の加護にすがったのが始まりだろう。

お祭りが、本格的な夏が訪れる前に行われるのはそのためだろう。
掉尾をかざる「追い山」は、現在7月15日早朝の神事ですが、旧暦時代は6月15日。

したがって、お祭りはほぼ梅雨の終わりごろとなります。

この博多山笠の起源には諸説あるけれど、一般には鎌倉時代の1241年、博多・承天寺の開祖 聖一国師が疫病をしずめるため、博多津中の人々が担ぐ施餓鬼棚に乗って、甘露水(祈祷水)をまいたのがはじまりとされる。

当時は、神仏混交の時代。
それが、悪疫を防ぐ祗園大神(牛頭天王、素戔嗚大神)と結びつき、山笠を曳く形式に発展した事が想像できる。

さて、今回のタイトル「追い山」です。
このような起源から、博多山笠は、人々に担がれて「ゆっくり」と巡る(京都の祇園祭)時代が続いていたのですが、江戸時代の1687年に「追い山事件」が起きるのです。

土居町の助右衛門、娘を堅町の幾右衛門の息子に嫁がせたが、正月、新夫婦が嫁の里に初入りしてきたところ、折から祝宴中であった土居町の若者たちが、婿に笹水を祝い、はては桶ぶせにしたので、やがて両町の大げんかとなった、その場はともかく収まったが、その夏の祗園山笠は、土居町が三番山、四番山が官内町で堅町の組であったからたまらない。四番山は途中での昼食の時に、昼食抜きにして三番山をさんざん追い上げ、笹水の意趣を晴らした。(引用:博多山笠記録)

これが評判となり、前の山笠を追う、これは面白い、ということで、「追い山」が始まったというのです。

新婚夫婦を巡る、ちょっとした争いごとが今に伝わる勇壮な「追い山」の起源としたら、誠に興味深いではないか。

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