霊場会の総会で感じた偽物と本物

「真竜を怪しむことなかれ」は、偽物と本物は、元来ない。事実があるのみ。ということだ。
(「冀わくは、それ参学の高流、久しく模象に習って真竜を怪しむことなかれ」 – 普勧坐禅儀 -)

昔、春秋の時代。
中国に葉公(ようこう)という、とても「竜」の好きな人がいた。
竜が好きなので、自分の居所となる場所のすべて、壁にかける絵や置物、彫刻などすべてに竜をしつらえて共に生活をしていた。
この噂を聞いた竜。
本物の自分が出て行ったなら、さぞ喜ぶ(葉公が)だろうと思って、ある日、窓から顔を出したところ、葉公は驚いてしまって気絶した。

さて、霊場会に今回増えた先達さん。
他の霊場で大先達をされている方がおられたりして、そのファッションも、いわゆるお遍路姿から修験行者のスタイルまでおられ、なかには大変な霊場マニアも一部見受けられるようになってまいりました。
小生の場合は、格好だけで申しますと集合写真にありますような、仕事の途中っぽい格好(いや本当ですが)で参加させていただいております。

まあ、格好なんぞ、どうでもいいのですが、先ほどの「真竜を怪しむことなかれ」。
オカルトっぽくならないよう慎重を期して書きますけど、まあともかく私たちは自然の中に生きています。
今日も生きていて、ものが見えたり、聞こえたりするということは、見えている自分と見られているもの、更にその空間には空気もありますからいわば宇宙と一体になっているとも言えましょう。
最近、出来るだけ歩く巡礼をしておりますけど、時には大自然のりんとした空気の中で、その霊気あふれる大木を見上げたりしますと、光と、大木と、輝きと、青葉と、葉のしずくなど限りない自然のなかに居ることがあります。

その様なときと言うのは、小生の場合、お不動さんを感じるわけです。
大自然の中で、「おぉ頑張れよ」とか、まあ実際に聞こえると怖いのだけど感じるのです。

そしてここで言いたいことは、この「感じること」には、自分の分別や、認識というのは含まれていないという事なんです。”今”この瞬間に感じているのだから、感じている自分と周囲の自然が一体、というわけです。

小生は先達のお役目を頂いておりますが、今回の総会ではもうお役目返上しようかと思った事柄があり、今回は駄文を記しているのですが、霊場会の総会とてこれも自然の中における出来事ととらえればいいと思いました。
先達とは、塗香とは、納経帳とは、三礼とは、普座とはこうだと、言われていた先達さんがおられたけれど、きっとありゃネタだったんだろう…。

人様がものを云々する前に、人としての動きは既にある。
動きがあるから、その後に人は認識して問題にする。
認識というのは、動いた跡形、影を相手にすることですな。
影は私の自我、これを見ると執着します。これが迷いです。
だけど本当のところは自我なんて実体はどこにもない。

僕は自分で認識している世界を、過去と未来だと思ってます。
実体がないことを本当に自覚できれば、その時こそあらゆる束縛や迷いから解放されるのです。
よからぬ心の動き際がぶれると、自我がぽろりと出てしまう。
「真竜を怪しむことなかれ」。お寺参りのうんちくも、修験行者スタイルも良いけれど、あるのは真実のみ。迷いのおきる根源を自覚しなければならない。

霊場会の総会で感じた偽物と本物」への1件のフィードバック

  1. 加納恒敏

    目の覚めるようなお考えに共感いたしました・・お考えが心に染み入っております・・ありがとうございます

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