福昌禅寺 (九州36不動霊場めぐり 17番札所 )

九州の霊場を逆打ちで発心して以来、福岡県〜佐賀県〜熊本県〜大分県〜長崎県、そして結願の地は、小生が母親の出身地、鹿児島県となりました。
その最初の寺院は、九州三十六不動霊場三番目の曹洞宗寺院です。

曹洞宗の本山、永平寺のご開山、道元禅師は「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは自己を忘るるなり」と、おっしゃいました。
これは「仏の教えを学ぶものは、自分を忘れることが何よりも大切なことである」とお示しになった言葉であると、小生は受け取らせていただいております。

このように道元禅師は自分を忘れることで、自分を捨てることとされ、何がなんでも私がと自分の幸せばかりを追い回しても、幸せは咲きへ先へと逃げていって、掴むことは出来ないと教えられています。

しかし、今回の発願の際も、心にあったのは、自分の思いばかりではなかったかと、振り返り思うところもあります。

(門前の仁王様)

さて、九州三十六不動霊場第十七番札所 玉龍山 福昌禅寺の縁起は、応永元年(1394)に遡る。
薩摩藩主島津元久が開基し、石屋禅師を請して開山した曹洞禅初転の道場。
師は伊集院に生まれ、俗称は藤原氏島津の後裔。南禅寺の蒙山禅師に従って得度し、始め薩州妙円寺を開山しています。
以来、常に宗門の高い格式に位置し、道場は修行僧が雲集する所となります。
殊に、長州藩の禅林とは深く、大寧寺・瑠璃光寺等に法系をとどめ、天文十五年(1546)十五世忍室禅師の代に、後奈良天皇より綸旨をを賜り勅願寺となって以来は島津藩主の信任も篤くしている。

この頃に、宣教師ザビエルが自分の知識不足を嘆いたという逸話も残している。
尊皇攘夷にゆれた幕末は無参禅師が住持し晋山式において島津公と交わした問答に、「いかなるかこれ久志良の土百姓」「泥中の蓮華」自若泰然として一喝したのである。
更に、維新の英雄西郷隆盛をして「無明の眼を開けてくれたの恩人は老師である」といって深く敬慕していたという。

西郷さんにあってこの様に思えることは、まず自分を無くしていたからだと思います。

自分を忘れることで、自分を忘れ無欲ににって励むこと。
結願まで更に自省して参らせていただこうと思うのです。


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鹿児島県薩摩川内市向田町1040
TEL 0996-22-4363

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