島原駅のすぐ近くに五層の天守閣を有する堂々と聳え立つ島原城。
元和二年(1616)大和から転封された松倉重政が7年の歳月をかけて築いたもので森岳城とも呼ばれている。
以前の領主有馬氏はキリシタン大名であったが、松倉氏はこれに対し他に類を見ないキリシタン弾圧と苛政、酷税を領民に課したため、この城はキリシタン弾圧のシンボルとして領民から憎まれ、遠くローマまでその名が知られたという。
松倉勝家の時、島原南端口ノ津で発生した一揆はたちまち島原全島と天草に広がり、一揆軍は盟主に天草四郎を仰ぎ原城に立て籠もった。原城は松倉氏が島原城を築いた際、廃城とした城であるが、三方を海に囲まれた要害堅固の地にあるため一揆軍3万7千はよく戦い三ヶ月にわたり籠城し糧食つきた後、寛永十五年(1638)幕府軍の総攻撃に全員が戦死したと伝えられる。石垣だけが残る城址は史跡に指定され、十字架と天草四郎像が建っていた。
その海の玄関口である島原外港から雲仙道路を登ると、龍照寺がある。
東に向けて開けた境内は陽光を浴び、大きなお不動様にお出迎えいただける。
龍照寺にお詣りして、その規模の雄大さ、整備されている環境に驚いた。
(お不動さんの奥手に見えるのは雲仙普賢岳平成新山)
お寺は歴史が古いというだけが値打ちではない。
久しい星霜、苦難や嵐に耐えて現在に至る間の、これを支えてきた人々の真心と努力、そしてその奥にある不屈の信仰心が尊いのだと思う。
新しい寺院も、平和な社会を築き、人々の真の幸福のためにたゆまぬ努力をされている以上、その存在感は増幅して荘厳だ。
創建は昭和四十二年(1967)現住宮崎弘英和尚が新寺建立された。
現在は、御朱印を頂いた奥様がお世話をされていている。
平成新山雲仙普賢岳の噴火については記憶に新しいところだが、雲仙普賢岳の南側が龍照寺、島原城は雲仙普賢岳の東側、そして雲仙地獄めぐりは東側となる。
旧来より標高700m程の高原にある雲仙は九州の軽井沢ともいわれ、遠く江戸時代から拓けた温泉で、明治時代には避暑地として外国人が多く訪れたこともあり、純様式のあか抜けたホテルなども多く洒落た雰囲気を濃く残している。その数30余りの地獄は温泉街のすぐ近くで噴気を吐き、熱湯をたぎらせているが、寛永四年(1627)藩主松倉氏がこの地獄をキリシタン迫害に利用し、数十人を責め殺した悲しい歴史をとどめる十字架と殉教碑が立っていたので手を合わした。
有明の 不知火の海 のぞむ里 み仏の慈悲 ふかき龍照寺
第22番
ー真言宗ー 龍照寺 厄よけ不動
〒859-1505
長崎県島原市深江町戊3987-35
0957-72-6671