不知足の者は富めりと雖も而も貧し、知足の人は貧しと雖も而も富めり
山門入口にある掲示板に掲示されていたから、ここが禅宗のお寺、それも曹洞宗の寺院であることを思い出した。
橘湾を臨む東長崎の発展は、矢上町を中心としていたのだろうと思う。
古くは長崎街道の宿場町として栄えたところで、路傍のたたずまいに往古を偲ぶことが出来る。
一帯は山に囲まれた市街とは異なり、平野部が諫早に向けて広がり、八郎川や現川の流れが港にそそいでいる。
寺域は東長崎支所の裏側にあってり、番所橋から旧道を入った小学校の奥にある。
創建は享保二十年(1735)、諫早藩の藩士である藤井氏の菩提寺として開基し、禅刹天祐寺の僧大亀圓晟大和尚が開山。
こうした関係から諫早藩の士が帰依し、のち壇野氏が寺領を寄進するに及んで寺門は殷盛した。
然し、当時の藩政は大きく乱れ、佐嘉藩の苛政に苦しめられていたという。
いわば卑屈の治政で「佐嘉藩の家臣が諫早領内で無礼を働いてもその罪は一切おとがめなし」とされていたのだ。
こうした領民の不満が噴出したのが寛延三年(1626)の百姓一揆である。
直訴に直訴をかさねたが失敗し、指導者の若杉春后は磔の形に処せられた。
この騒動で多くの農民が犠牲になっている。
その原因は秀吉の薩摩の島津攻めに溯る。
柳川藩主龍造寺家晴は秀吉に従いて勲功をたてたが、秀吉の謀によって城を立花氏に明け渡す羽目となった。このとき、秀吉は家晴に対して諫早西郷氏の城を攻め取るようにとの朱印状を与えた。激戦は死中の活が勝利し、諫早城主になったものの、二代直孝の代に参勤交代の藩費に苦慮し、自ら大名を棄毀して佐嘉鍋島氏の国家老に下った。こうしたことから佐嘉藩では殿様の名目代と称して一万石を借り上げ、代官所を設けて支配し領民はこの借り上げ地を「お蔵入り」と呼んで悔やんだ。
力の苛政に家臣は内職を強いられて忍んでいた頃、藩士が菩提寺に名を借りて建立した正覚寺の信仰は、時に武士道を喧噪して熄まなかったという。
境内には階に大樹のモミが天に聳え、御堂の左に石仏龕と太子堂がある。
龕の前には練江八十八カ所霊場の札を掲げた大師信仰の温もりがあり、太子堂には聖徳大師像と並んで霊験あらたかな不動尊を安置している。
二像とも年代を感じさせる刻があるが、殊に不動尊の推定は藤原期と伝えられている。だが不運にも極彩色の手を加えたことが災いし、文化財の指定から外されている。
尊像はもと天台宗寺院の本尊であったが、台風の襲来に堂宇は倒壊して、再建もままならずにあった。
見かねた先住が話し合ってこの地に遷座したもので、毎月二十八日の縁日には有縁の信者で賑わい、とりわけ産後の母子ともに危険な状態になったとき、実家の母が不動尊に願をかけて平癒したという。
護国山 法につつみし 暁の 悟り修めと 大悲のめぐみ
第23番
ー曹洞宗ー 正覚寺 波切り不動
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