桔梗山 三明院 (九州36不動霊場めぐり 8番札所 )

恩讐の彼方に 大分県の最北端に位置する中津市は、中津城下町の侘いを色濃く残した歴史の里であり、また、菊池寛の小説「恩讐の彼方に」でも紹介される青ノ洞門、開基以来600年の古刹羅漢寺など、中津市の南部、英彦山に源を発する山国川と、その支流一帯からなる大峡谷は東西36km、南北32kmもの一大景勝地であり、悠久の流れをうつす水郷の里ともいえる癒しの地ともいえます。

また、福沢諭吉が一万円札の顔となってからは諭吉の里としても脚光を浴びており、3歳から21歳まで起居した藁葺きの母屋や諭吉が勉学に使った荒壁の土蔵、そして福沢記念館があります。館内に展示してある「学問のススメ」の原本を始め遺品、遺墨、著書が展示されている。
戦後の軽薄な世相を憂い、道徳学を提唱した広池博士が育ったところでもあり、いわば、多くの碩学者を輩出した由緒ある土地ともいえよう。

そしてこの土地に開基されているのが、三明院です。


三明院は、現住の古梶英明和尚が建立した新寺。
その経緯は、大志をいただいて学舎にいたころから、真言密教に惹かれ、余暇をみつけては大覚寺門跡の会下に参じて教えを修得していたが、今、道心になろうとは微塵も考えていなかったと言われます。

ある日、物のふに憑かれた見えない力のあやつりを感じて死んだつもりになり、限られた人生を仏門に帰依することを決心され、後悔はない、と逡巡することなく行動に移し、諸尊を車に積んで生家の永添に戻ったとき、両親は青天の霹靂に驚倒したといいます。

その後、西国札所の勝尾寺に山籠もりしていたとき、父が病気で倒れたという霊示を受けた。
急ぎ、帰郷して持仏の不動明王に祈祷を修したところ忽ち奇異が起こり、掛け軸の不動明王の御影が二つに割れた。と同時に父の意識が戻り日を追って全快した。
この不思議な現象に感悟した英明師は、お大師さんが暁の明星に行った「求聞持法」を修得しようと宮嶋に渡ります。

智慧を拓く 求聞持法とは、虚空蔵菩薩を本尊として礼拝する修法であり、100日間あるいは50日間で虚空蔵菩薩の真言を百万遍となえるという厳しい行をいいます。
この修法の方法を示す次第は二種類、ひとつは弘法大師が入唐前に授かったものと、入唐して恵果阿闍梨から伝授された行法が有ると言われます。
弘法大師が室戸岬で厳修されたとき、「谷響を惜しまず、明星来影」と誌された三教指帰の序文は有名です。
行者は午前二時に起床、沐浴、閼伽水を先ず汲む。
沐浴は冷水をかぶる身心の禊ぎであり、閼伽水は仏前に供える清水のこと。食事は米類を避け、一日一食の菜食で過ごすのです。

弘法大師が求めた道を慕って行うこの山籠もりの50日間は、常に死と背中合わせの難行苦行であって、虚空蔵菩薩の御真言を百万遍唱えるもの。真言密教における最高の秘法であり、また五穀を断っての木喰戒でもある。

願成満の暁天に、新たな奇端を見たという。遙か、生家の空に紫雲がたなびき、大師の坐す影が浮かんでいる。拭えども止まらぬ涙の中に、浄土の壮厳をはっきりと見ていた。身も心も慟哭にふるえが声にならない。

仁王立ちの師が見た宇宙の神秘こそ、実に真言密教の根源にある阿字観であろう。
まずますと霊場巡拝への興味が深まるばかりである。

三明の 光さやけし 今の世に 生きて覚るは 仏の道なり
第8番
ー真言宗ー 桔梗山 三明院 身代わり末広不動尊
〒871-0162
大分県中津市永添1802
0979-24-3021

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