無動院 (九州36不動霊場めぐり 26番札所)

お釈迦様が入滅されてから、次の仏である弥勒菩薩がこの世に現れるまでの五十六億七千万年間は、いうなれば仏不在の空白期間。

そこで弥勒下生までの間、六道(地獄〜餓鬼〜畜生〜修羅〜人間〜天をめぐって人々の救済にあたり、人々の願いを残らずに聞き届けるまでは菩薩界には戻らないと誓って、いまも頭を丸めたお坊さまのお姿で六道遍路の旅を続けておられるのが地蔵菩薩です。

九州三十六不動霊場第二十六番札所 無動院の境内前におられる六地蔵は、全高170センチ、笠石の稜線が丸みをおびていて、二段継ぎの竿石が高さに比例して大きくなっているから重厚な感じを受けます。

こちらの寺院は長享元年(1487)黒髪山大智院の隠居寺として開山されています。
本堂裏の高野明神にある煉瓦に、十六辨の菊花紋章が使用されておりますから、さぞ由緒深いのでしょう、また他にもある数々の石塔からも周辺からの信仰が厚く寄せられている事が伺いとれます。

さて、小生はこの九州の不動尊霊場にどのような想いを持っているのか、その決意とは違った願いというべきか、その向き合い方自体が固執して、また執着してしまっているのではないかと寒くなることがある。


この霊場を巡ったところで、何も得ることは出来ないと思う事に固執や執着する心は感じられないけれど、はたまた何かを得ようとしている時はそこに固執しているわけだから、その中庸が難しい。
何れにしても、欲に負けてしまってはいけないし、またこの様に自分を責めるような事ばかりをしてはならない。
このように陥りやすい自己を心眼を見開いて智慧を深めなければならないと、宿に帰り、今日であったお地蔵様やお不動様を思い出しておりました。
そして持参している仏教聖典に目を通していると、この中庸たる考えについて記してありましたので少し長いですが引用しておきましょう。

 一本の材木が、大きな河を流れているとする。その材木が、右左の岸に近づかず、中流にも沈まず、陸にも上らず、人にもとられず、渦にも巻き込まれず、内から腐ることもなければ、その材木はついに海に流れ入るであろう。
 この材木のたとえのように、内にも外にもとらわれず、有にも無にもとらわれず、正にも邪にもとらわれず、迷いを離れ、さとりにこだわらず、中流に身をまかせるのが、道を修めるものの中堂の見方、中道の生活である。
 道を修める生活にとって大事なことは、両極端にとらわれず、常に中道を歩むことである。
 すべてのものは、生ずることもなく、滅することもなく、きまった性質のないものと知ってとらわれず、自分の行っている善にもとらわれず、すべてのものに縛られてはならない。
 とらわれないとは握りしめないこと、執着しないことである。道を修める者は、死を恐れず、また、生も願わない。この見方、あの見方と、どのような見方のあとをも追わないのである。
 人が執着の心を起こすとき、たちまち、迷いの生活が始まる。だから、さとりへの道を歩むものは、握りしめず、取らず、とどまらないのが、とらわれのない生活である。

 さとることはあるけれど、さとられるものはない。
 迷いがあるからさとりというのであって、迷いがなくなればさとりもなくなる。
 迷いを離れてさとりはなく、さとりを離れて迷いはない。

第26番
#NAME?
〒849-2304
佐賀県杵島郡山内町大野9122
0954-45-3774

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。