幸福と不幸は一対、表裏一体、裏腹であります。
「楽あれば苦あり」「苦あれば楽あり」、「禍福はあざなえる縄のごとし」「人間万事塞翁が馬」と、小生の場合、何となくだけど不幸と感じたり、幸せと感じたりすることと言うものが、交互にやってくるように感じることが多くあります。
最近の小生の場合ですと、正月に悪いことがあれば、今年一年がずつと悪いんじゃないかと思いこんだり、逆にオミクジで大吉なんて引き当てると、もうそれだけで幸せを分けてあげたい位の心持ちになるのです。
とても幸せだと感じたその後で、ちょっとムカツクような事があっただけでも、その幸せなんて吹っ飛んでしまって、逆に大きな憂鬱感や酷いときには喪失感というか、周囲に気をつかわせてしまってハッと気づくようなことも間々あるほどです。
さて、今回このような話を記しておりますのは、先日の巡礼についてのエントリーでも記したとおり、ご住職からの法話と申しますかお話しを頂いた事によります。
間もなく迎える節分を前に、もし何か辛いようなことがあるならと、この様なお話しを頂いたのです。
例えば、小生が20歳を少し過ぎた頃に、肩が複雑なこと(脱臼など)になった事があって3ヶ月ほど入院したことがあったのですが、その病院から退院した直後、その当時ただ健康で動けるだけで喜び一杯になったものです。
ところが、数年がたてばストレッチをしたり、温めたりと体への養生などすっかり忘れていて、「あれ何だか肩が凝ったな」などと、そもそもの原因を忘れてしまってるのです。
そして何よりも問題なのは、幸せに感じることと、不幸だと感じることが相対的であると知りながら、いちいちと幸せだ不幸だと感じて、自分の心に思う有様なのです。
幸せと不幸というのは、そこを意識すれば必ず無限にやってくるのだけど、それは交互にも感じられるわけで、ご住職とはここの所を話させて頂いたのです。
そして、幸福にも不幸にも心を揺らすことがない安定した心の有様を手に入れる事を目指すことであると気づかせていただいたのですが、これは感動や悲しみを感じなくなると言うことではありません。
喜びや悲しみや嫌なことに自分を見失うのではない、それは必ず一時的なものであるからこそ、その先にある自分自身の道を見つめること。これが人生を歩むと言うことであり、仏道を歩むことなのではないでしょうか。
明日は節分。
お正月から今までも、また新たにスタートする大切な日です。
喜びより憂いは生じ、喜びより恐れは生ぜん。喜びを離れし人に憂いなし。いずこにか、また恐れあらん。
一喜一憂に心奪われることなく、大きな目標への進んで行きたいとも思うのでした。
第27番
ー真言宗ー 正福寺 身代わり不動
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