九州三十六不動尊めぐりを逆打ちでと発願して早二月目。三十番台はこちらの御寺院までで、次からは二十番台なのですが、ここですごいなと思うのは、すべてお留守でなかった事なのです。
近畿三十六不動尊巡礼の場合でも、お留守である可能性があるから電話をしてから行った方が良いと思われる不動院や、葛川息障明王院があるのだけど、今回の九州ではすべておられるので本当に有り難い。
ただ、以前のエントリーで記しましたように小生は、お軸への御朱印のお願いしております為に、山号や御寺院を墨と筆をもってご記入いただく事になるのです。
そのため、お留守でなくともこれの出来る事が出来ない方がおられない場合もある。
奥様にお出迎えを頂いて、御朱印軸をお出しすると、「住職が外出していて私には書けない」と仰る。
小生にすれば、はるばる佐賀の地まできてどうしよう、と思ったり、踏ん切りよくじゃあまた改めますと帰れるような距離でもありません。
しかし、無理にお願いできることでもなくって、「やはり一旦出直します」とあとにします。
今回は初めての経験だったので、とりあえず隣接する與賀神社(与賀神社)の境内に移動、天然記念物の大楠前でしばらく考えてみることにしました。
「喜びより憂いは生じ、喜びより恐れは生ぜん。喜びを離れし人に憂いなし、いずこにか、また恐れあらん」 – 法句経 –
幸福と不幸は表裏一体、裏腹であって「楽あれば苦あり」「苦あれば楽あり」「禍福はあざなえる縄のごとし」「人間万事塞翁が馬」。
「残念なことがあれば、楽しいこともある」「タイミングが悪くとも良くなることもある」。
今はなんとなく残念だけど、良くなることもあるのかな、と。
そもそも小生というのは、ひょうきんな単純男で、幸せだなあと思っているような時に、ちょっと嫌なことがあったりするだけでも、人様以上に大きな喪失感とか憂鬱感に陥ってしまう。
ところが暫くして、不幸のどん底のような苦しみのあと、ちょっとした幸せが感じられたとき、もう喜び一杯な単純回路なのであります。
一時のことに左右されて自分を見失うような事ではなく、樹齢1400年の大楠の木のように、しっかりと地に根を張って歩むという事こそ仏教を学ぶと言うことなのかも知れない、そして不幸との浮き沈みから心を揺らすことなく、安定した心の有様を手に入れようと改めて思ったのです。
そして奥様にご対応していただいたとき、顔に出ていなかったろうかと考えたのです。
住職が居られない事をお知らせいただいた際、いわゆる嫌な顔になっていなかったろうか、と不安に思うわけで、残念そうな表情が傲慢さとなって伝わっていなかったろうかと、不安に思えてきたのです。
そんなことを思いつつ、お詫びしようともう一度お寺に戻ろうと思ったら、あれれ住職が帰っておられて御朱印を頂くことになりました。
こちらのご住職。
比叡山は無動寺明王堂に居られたことがあるとの事で、阿闍梨さんのお話など頂きまして、待って良かったとお見送りを頂きながらつくづくと思った次第でありました。
第30番
ー天台宗ー 延命院 一願不動
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