屏風山 鎮国寺 (九州36不動霊場めぐり 34番札所 )

鎮国寺さんは、真言宗御室派 総本山 京都 仁和寺の別格本山です。

ご本尊は波切り不動尊。ご存じの方もおられましょうウチの本尊も波切不動さん。
そんな事から副住職さんとお話しをさせていただきました。

お話しの内容は、波切不動尊とお寺について。
それをここでご紹介と思いますが、間違ってはいけません、まずは鎮国寺縁起より引用してご紹介しましょう。

 弘法大師(空海)は、第16次遣唐使船で入唐の砌、大坊風雨に遭遇されました。この時危難を救わんが為、海の守護神宗像大神をはじめ諸仏菩薩に祈誓を込められたところ、波間に不動明王が示現されました。右手に持たれる般若の利剣で波を左右に切り払われると、荒れ狂う風波は瞬く間に静まり、無事唐土に着く頃が出来たのです。
 首都長安(西安)において、青龍寺の恵果阿闍梨から真言の秘法を授かり、大同元年(806)に帰朝された弘法大師は、まず宗像大社に礼参されました。その時、屏風山に瑞雲が棚引くのを観られ、奥の院岩窟において修法を始められたところ、「この地こそは鎮護国家の根本道場たるべき霊地」とのお告げをこうむり、一宇を建立し、屏風山鎮国寺と号されました。


 この時とてもご丁寧にお話しをお聞かせいただき、いま振り返り考えていたのですが、今回はこの切り拓く事を通して得る、勝つという事について記したいと思います。

 要は、「勝たねばならない」」と言うことです。

 これは、先日書いた敵国降伏のエントリー、自分に勝つという話しにも繋がるのですが、要は勝ち取らなければならない、そのためには、すべてを乗り越える必要があるということを今思うのです。

 これを実践してゆけば、やがて一切において勝利者になれ、世の中で最も優れた存在となるのです、もう頼らなければならないもの等なにもありません。人モノ金、その他全ての何ものにも一切束縛される事がない究極的な自由が楽しめるのです。

 こんな事を書いているとついに狂ったかと思われそうですが、もう暫し続けますね。

 いや例えば何でもありなんですが、人間が生きていているだけ、何もせずにただ生きているというのもありでしょう。
 何も残さず、何も求めずというのもあり、何でもありなんです。だからこれを否定をしませんが、おおよその人の間では勝つことに承認を与えられる仕組みになっていると言えるです。

 これが何故なのかは判りませんが、生まれてきたからには何も残さない、求めないから得るものも無いのは善ではなく、悪である風潮があって、勝てば善、生まれた以上は勝たねばならないという風潮があるような気がしますな。

 じゃあ何を残すのか、そして何を求め、何を得るのか、です。

 小生なんてよく人モノ金とか時間などと言います。
 ないよりは良いと思いますし、それらを得た時って嬉しいものですし、一日の充実感も得られます。

 たけど問題なのは、「もっともっと」の欲望が起こり始めた時はマズイ。だから時にはこう割り切る。
 夢を抱くのは良いけれど、夢と現実は違うのであって、実現できない夢もあるのです。

 そもそも、得たものがあっても実際には永久に残せるハズもありません。
 だからもし勝ち取ったとしても、それは必ず消えるものですし、人モノ金、そして時間にしても多くなれば多くなるほど楽しみが増える一方と言うわけではなく、むしろ面倒が増えるだけなのかも知れません。
 今その様に思い始めると、少しだけ眠れそうになってきました。

 さてさて、「信願成就」って言葉ですが、今検索したら、どうやら僕のオリジナルっぽいですね。
 誰も使ってないです。

 小生が護摩木や、のぼり旗を献納する際に記入する際に記す言葉なんですが、ここでいう信願成就とは、自分の信じる願いが成就するようにという意味。です。

 自分の信じる願いが成就するように、ってなんて傲慢なんでしょうか。

 ただ、これを書くと傲慢が頭にあるから、何とも広い意味で「人様のお役に立つように」との願いをいだくことが出来る、不思議な言葉なんです。

 人様のお役に立つように、それは身近な人からになるけれど、少しでも広げて行きたいものです。だからこそこの信願、自らが信じる心の軸が傲慢にならぬよう、波切不動明王の持つ利剣がが持つ意味であると、思う早稲手頂いているのです。

 なお、鎮国寺さんは、宗像大社の神宮寺です。
 宗像大社に関しては、別のエントリーで記したいほど興味がある神社ですから別の機会に記したく思います。


 屏風山 鎮国寺
 福岡県宗像郡玄海町吉田966
 0940−62−0111

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