この楼門は、伏敵門というのだけど、僕にとってはそれだけインパクトがある。
はじめて筥崎宮を訪れたとき、勇ましいなあと思ったのが第一印象。
今日、あらためてお詣りさせていただいたわけだが、やはり一番に「敵国降伏」が目に入った。
まあこの四文字をみて、自分の敵は自分。また、仕事ならば驕りや怠惰緩慢と、いずれも自ら律するような事なのかと思っているわけですが、今日は少しだけしか呑んでない。
今日のお泊まりホテルのBARにゆくのもありだけど、あえて「敵国降伏」をタイトルに書いてみようと思うのです。
さて、仏教的にも降伏というなら「降伏一切大魔最勝成就」を思い出します。
やはり、自らここで行う「大祓」は、己が心身の汚れを敵国としても意味深いように思わせていただいている為でもあります。
何処かで聞いたような言葉ですが、敵は自らの心にある、ってわけですな。
なのに人間関係、とりわけ夫婦というのはこれにこだわっていて互いに引かないようなことが多い。
自らの心にと言うところで考えたなら、そもそも夫婦関係でも、たがいに敵ではなくって、自らの心にこそ敵があると思ったら、いさかいトラブルなんてのは起こらないわけです。
かといっても、そんなことばかり考えてれば、考えた方には腎臓とか悪くなってくるほどストレスも溜まってきそうなもんですが、このあたりの事って特に新婚時代から、三十前半くらいで突き当たるような問題でしょうか。
よくお受けする相談の根本的な話しであるようです。
その智を得るには、内にも外にも「降伏一切大魔最勝成就」を使い分けて生きるのも必要と言うことになりましょうか。
外では自分の敵と味方の区別も知らねななりません。
知らない結果、自分も配偶者をも不幸にしてしまうことになりかねない。
それら「敵」を見極めるておくというわけです。
ところが見極めってのは難しい。
そもそも、たいていの人は、誰でもかれでも味方と思いたいものです。
ゆえに、親しげに近寄ってきて、あれやこれやと、話しを聞いてくれたり、かばってくれたり面倒を見てくれたりすると、すぐに味方と判断してしまう。
ところが、相手の目的は別のところにある事の方が多い。
その目的のためならご機嫌を取り、いい気持にさせておいてあとは…
実は、自分ではわかっているつもりなんだけど、自分の話しを聞いてくれたりすると、つい親しみを覚える、これは人間共通の弱みなんでしょう、だから、長い目で見るなら自分のためを思ってくれる厳しいメンターでもいるなら本当に幸せ、ところがそれでさえもウルサイ、とやってしまってる。
そして、騙されたり陥れられたり、目的達成ののちの変化に耐えられなくなって不幸にある実感もない事もしばしば、自分の為を思ってくれるメンター的な存在とそうではない利益(目的)のためにといういう理由で私達を利用している存在の人物とは容易に区別をつけられるものではない、そう、思うのです。
つまり、自分の「味方」や「敵」なんてのは、内にも外にも見出しにくい事だけど、間違いなく外には見つけられない、という事です。
そして周りの人間を、もしも「敵」とするなら、これは苦しい毎日であって、どうせなら「味方」としてしまえば幸せになる。
「男は一歩外に出れば100人の敵がいる」とか言いますけど、「敵」はこんなもんじゃないでしょうし、味方も必ずいますよね、一人でも。
一人でも応援してくれている人は、必ずいるのですから、これらを把握する事に意識をおくよりも、自分の心次第、そもそも区別する必要もないのです。
だから自分の心に内在している、敵にしても味方にしても早く、上手につきあえるように。
「敵国降伏」は、国としてだけど、自分の心に居る敵と味方は、漫画なんかに出てくる良心と悪魔だけじゃなくって選択も広範囲だから、その都度に選択は難しいものだ。
さて、最後までとりとめない話しになってしまったが、明日も早いので申し訳ないもう寝ます。
それでは、お休みなさい。