賀茂別雷神社

山紫水明の地とされる京都。
碁盤の目に整備された街並みの、その東に位置して北から南へ流れる川、これを鴨川と言います。

牛若丸と弁慶の戦いで有名な五条大橋(旧松原橋)、八坂神社の鳥居前で祗園など繁華街にある四条大橋、そして東海道の起終点の三条大橋。
そこから更に上がり(北へ行き)ますと出町柳あたりで二方から流れてきた川が合流します。
向かって右が高野川、左側が賀茂川です。

「鴨川」だったというのに、川をさかのぼってゆくと出町柳あたりから「賀茂川」となるのです。

国交省の定める河川法上では鴨川が正式名称になるんだけど、京都人なら「鴨川」と「賀茂川」の区別を理解しているだろうし、ほとんどの地図にもそう記され続けております。
これについては京都の地理について解説した「図説 歴史で読み解く京都の地理 style=」から引用したい。

賀茂川の名称がいまでも残っているのは、上賀茂神社(賀茂別雷神社)および下鴨神社(賀茂御祖神社)との関係に起因している。このあたり一帯にかけて、大和から移住してきた賀茂氏が本拠地としてきたところが北山山麓の賀茂別雷神社(上賀茂神社)であって、賀茂氏の氏神さんが賀茂御祖神社(下鴨神社)にあたり、そこで神社名を賀茂と鴨に振り分けたといわれている。

さて、この上賀茂神社、下鴨神社はともに京都の一の宮とされている。
一の宮は、平安から鎌倉にかけ自然発生的に生じてきたた神社の社格と言われております。
しかし、現代に有名な神社ならすべて、一の宮であるとは限りません。
これは平安や鎌倉当時からの歴史的なものとの理解にしておこうと思うところですが、京都で言えば伏見稲荷大社、松尾大社、八坂神社、北野天満宮、岩清水八幡宮など、お正月の参拝客でとても賑わっているような神社や、全国的にも有名な明治神宮、熱田神宮などは含まれておりません。
おそらくこれは、朝廷の関わりも深くあったのでしょう、朝廷の定める二十社や二十二社、明治政府の定める官幣大社、国幣大社などの神社がほとんどになっております。
す。
そんな意味では、遷都前から創始しており、遷都後には下鴨神社と王城鎮護の役割を担ったと言う意味で朝廷と大きな関わりがある上賀茂神社。
「一の宮巡り朱印帳」第1ページ目は、この古社から始まります。


鳥居を通ってまず目に付くのは、立砂(たてすな)。
これは盛砂(もりすな)ともいいますが、「たつ」は神さまの出現に由来した言葉です。

写真がないので残念ですが、神山は上賀茂神社の社殿から北へ二キロにある円錐形の美しい形をした標高301,5メートルの山で、典型的な神奈備山。
上賀茂神社からは、その姿は見えませんが賀茂別雷神が降臨したのはこの神山で、当時、様々な祭祀がここで執り行われていたと思われている聖地です。
山頂に賀茂別雷神の依り代とされる「降臨石」が今も残ると伝えられますが、古来から足を踏み入れるべきではないとされ、現在も立ち入ることができません。

つまり立砂は、神さまの出現したこの神山にちなんでいるわけです。
そして、この立砂は家の戸口や店先、また土地を清める際に使用される「盛り塩」の起源ともされておりますから、やはり上賀茂神社の奥深さを感じるところです。

そして、ここから奥に進めば本殿となります。
本殿は国宝。そして三十四ある社殿も全て重要文化財です。
なによりも神域内には感動的な美しさの建造物もあります。
しかし、とうていその全てを一度のエントリーでは紹介する事などできません。

上賀茂神社については、また繰り返して記して行きたく「上賀茂神社の砂山と神山」のエントリーを終えたく思います。

上賀茂神社(かみがもじんじゃ)
京都府京都市北区上賀茂本山339
電話番号 075-781-0011

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