何だか、一気です。
本日、今まで公開せずにおいていたエントリーを一気に公開したのです。
だから少し12月からも遡って、11月後半エントリも見てください、辻褄を理解いただけないかも知れませんw。
さて、まずは本当のことの話しから。
実は、ここ最近。
何かをし忘れているなあと、あれれ何かが違うぞ、とそんな風にいたずらな日ばかりを重ねていたのはこれ本当。
だからブログを更新しなかった、これが理由なんです。
…ってのでは言い訳にもなりませんな。
で、強いて言うならばこう。
忘れたくっても忘れられない事を忘れる事ほど難しく、いや、実は忘れていたと言うよりも忘れたことにしていたわけです。いや、これもまた更新しなかった理由になりませんよ。
幸せな時間のままでとまっていてくれれば良いなあと。あとでそんなこと思ってもこの世で幸せ100%の時間なんて現実おこる確率などありゃしませんよな。例えば愛とか恋とかというものに浸っている二人なんてのはそれを知っていて、幸せに感じるような時間を創出しあう。
だけどいずれか一方、またそのうちの誰かが、この創出や共感や受容をする事に関心しなくなってくる。
恐らくこれは時間の経過に関係してるものなんだろうけど、そしてそうなると、ついには幸せだった時間は思い出として残そう、つまりいい人であり続けたいなと、いやあるいは忘れようと随分と努力するよう変化してくる。
まあ一般的にはそうですな、そんなスタイルが美しく見える。
僕にとってのブログというのは、なんと言うか自分自身の振り返りのような、また時には決意のようなその様なコミットしたり振り返ったり、また人に逢って話そうものなら笑われそうな夢とか、未来とかも書けてみたりする。
本当にそんな感じだったのですよ。
それが暫くの間こんなブログでも続けてると、いつのまにか僕にも習慣づけられていてですね、これが便利なことも知っているから余計と、そして勿論読んで下さってる方というか、読んでね!なんて声をかけていてお会いしたとき、読んだよ!なんて言われまして、もうこれは小さな範囲であろうが何であろうが承認世界なんですよ。
一旦これらが習慣付けられると、書けない事にフラストレーションがおこる、そんな頃もあったのが懐かしいよ。
ま、そんな事はおいといて、これ、本当に一部の方のみが知る事。
だからこればかりはここに書けません。だけどこの様に対外的というか表面的なこと以外の問題も起こりました。
そして、
これが起こる事によって、ほとほと自分の小ささもわかりますた。
何故俺というのはこれほどまでに気を失うほどに、また失ってからも酒を呑むのか。
それは単にそうでもしなければ今日一日を振り返るようなこともするのではという恐れからただひたすら逃げるために酒を呑んでいることに滑稽さを覚えるまでなわけですよ。
つまりそんな自分が滑稽だと思ったのは、これすらも言わば日々の経験であって、その日々の記憶を積み重ねて自然と明日の日を上手く生きようとしている。つまり上手く呑もうとしていたり、極端に場所を変えてみたりしていて、あれ?自分っておかしいなと感じ始めたのですよ、アホですね。
そこで最近のエントリーをご覧頂いた方はご存じでしょう、九州での用件が多いことも助けて九州三十六不動霊場めぐりを発願しているような訳でもあります。
何れにしても、未だ木鶏に非ずとは46の歳をいたずらに過ごしている結果でありましょう、情けない限りですけれども、、、。
ですから霊場へ逃げてるのではないかとの考えも僕に沸き起こります。
しかしはじめて暫くすれば気づきました。
今回の逆打ちのようなことでは、本当に目に見える様なことが既に起こっていたりします。
だからこちらからも逃げられないから本質的な自分と向かい合う事が出来る。
これが何なのかなんて、僕にとっては大きな課題ですけども、何だろうこれは間違いなく今の僕だけの問題なんだろう、しっかりと乗り越えてゆこうと思っておる次第です。
写真は、龍宮伝説のある龍宮神社の近くでとったものです。
九州最南端というわけではありませんが、下の地図でご覧頂ければ鹿児島の南の方である事が確認できます。
当日は、実は雨が降っておりましていくらこの様に鹿児島の南あたりとは言えど、傘も差さずに長崎鼻の崖っぷちで考えておりまして、この荒い波風で削られてとても荒々しくも海へとは必ず続く岩肌を進みながら般若心経を唱えておりますと、ずぶ濡れになって読経している自分も、この先にあるかも知れない天国(竜宮城)をおもう自分をもが滑稽に思えたのでした。
とまあこの様なこともありつつも、ブログに復帰しました。
パラドックス、蜂の網の仕組みの中で逃げると錯誤してしまう思考と感情が関わってきますよね。手強い存在(笑)。
独断と偏見による解釈ですけれど・・・。
貴方様の御考えにヒットしないかもしれませんが・・・。