高野寺 (九州36不動霊場めぐり 18番札所 )
九州の博多相談室に朱印軸を額装して祀らせていただこうとの思いつきで始めた九州三十六不動霊場めぐりも、残る札所は8カ寺となった。
博多相談室に朱印軸を祀らせていただく事。
相談室にお越しになる方々はよりよい生活を望んでこられるわけで、陰ながらも更に幸せな生活を送っていただける祈りのため、また、今回の巡礼ではこの世に生を受けた恩を感じつつも、小生が母親の出生地からも九州へのご縁を感じ、ご先祖様への供養という意味もある。
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九州の博多相談室に朱印軸を額装して祀らせていただこうとの思いつきで始めた九州三十六不動霊場めぐりも、残る札所は8カ寺となった。
博多相談室に朱印軸を祀らせていただく事。
相談室にお越しになる方々はよりよい生活を望んでこられるわけで、陰ながらも更に幸せな生活を送っていただける祈りのため、また、今回の巡礼ではこの世に生を受けた恩を感じつつも、小生が母親の出生地からも九州へのご縁を感じ、ご先祖様への供養という意味もある。
不知火海に突き出るように位置している宇土半島。
その根占に位置している富合町木原山は、別名を雁回山とも呼ばれている。
伝説に、鎮西八郎為朝が山頂に居城を築き、豪弓をもってあたりを威嚇していたので、空に舞う雁もこの弓を畏れて迂回したことに由来しているとの事だ。

九州のほぼ中央にある世界的にも有名な活火山と言えば阿蘇山だ。
最高峰の高岳のほか、中岳、烏帽子岳、杵島岳、根子岳を総称して阿蘇五岳と呼び、南北24km、周囲128kmの巨大カルデラの外輪を形成している。
火ノ国と称えられる熊本県は、この阿蘇山を東に城山など繁華街を中心に繁栄してきている。
創建は弘安元年(1278)。当時の地頭であった河尻左右衛門佐泰明が寒厳禅師に帰依して建てたとされる。
解脱門はこの寺の象徴とも言えよう、くぐると左右に六地蔵がみえる。
六道能化のこの菩薩は、儀軌において香炉、法珠、合掌、しるしばた、錫杖、数珠をもっている。
その先には、山頭火の句碑が建ち、大正五年に熊本に訪れた際の句が刻まれていた。

熊本市に隣接している玉名市の霊峰小岱山(しょうだいさん)に世界一の梵鐘がある蓮華院誕生寺奥之院があります。
この大梵鐘は重量が37,5トン、京都から国道を通ってきたのですが、小岱山にある奥之院への狭い山道は、本当に急な坂道で曲がりくねった道で、小生が使用する1000ccのレンタカーはローギアのままでしたから、はたしてこの梵鐘はどうやって上がったのか不思議で仕方ない。
梵音には抜苦与楽・離業得脱(苦を抜き、楽を与える・業を離れ、解脱を得せしむる)の願いが込められているというが、梵鐘の存在がそう語りかけるからしばし前にいてたたずんでいた。
すると鐘を突かせていただけるという。
ここでいう蕎麦湯は、モリソバとか、ザルソバとか、冷たいお蕎麦の類を注文するとセットのように付いてくるアレ、蕎麦猪口に、お蕎麦をつけて食べ終わる頃に出されるものです。
この蕎麦湯。小生にとっては蕎麦屋のオマケ的な楽しみ。
蕎麦湯に溶け出た栄養分を摂る意味もあるけれど、何より今まで食べていた蕎麦を思い出しながら余韻に浸れるものであります。
しかしお店によって蕎麦湯はすべて違うのもの。
サラッとしたのとドロッとしたもの。それに、湯気から香りが立つものや香らないものもあります。
だから、それぞれの楽しみがあって自分の工夫も出来るから、もうひと味も二味も楽しめるのです。
さらには目で見て楽しめる湯桶(ゆとう)もあります。基本的には四角い朱塗りのものだけど最近じゃ陶器製もあるから店の性格が出ていて面白いのです。
今日は久々の京都。朝から京都市内だったから、どこに行こうかと思ったが日曜に開いてる店も少ないから「蕎麦処 いしたに」に決めた。
この店は、以前の拓朗亭があったつつじケ丘よりも、密集した住宅街の中にあって、どうしてこんな場所にと思うが、駐車スペースが二台分ある。

島原駅のすぐ近くに五層の天守閣を有する堂々と聳え立つ島原城。
元和二年(1616)大和から転封された松倉重政が7年の歳月をかけて築いたもので森岳城とも呼ばれている。
以前の領主有馬氏はキリシタン大名であったが、松倉氏はこれに対し他に類を見ないキリシタン弾圧と苛政、酷税を領民に課したため、この城はキリシタン弾圧のシンボルとして領民から憎まれ、遠くローマまでその名が知られたという。

松倉勝家の時、島原南端口ノ津で発生した一揆はたちまち島原全島と天草に広がり、一揆軍は盟主に天草四郎を仰ぎ原城に立て籠もった。原城は松倉氏が島原城を築いた際、廃城とした城であるが、三方を海に囲まれた要害堅固の地にあるため一揆軍3万7千はよく戦い三ヶ月にわたり籠城し糧食つきた後、寛永十五年(1638)幕府軍の総攻撃に全員が戦死したと伝えられる。石垣だけが残る城址は史跡に指定され、十字架と天草四郎像が建っていた。
その海の玄関口である島原外港から雲仙道路を登ると、龍照寺がある。
東に向けて開けた境内は陽光を浴び、大きなお不動様にお出迎えいただける。
龍照寺にお詣りして、その規模の雄大さ、整備されている環境に驚いた。
不知足の者は富めりと雖も而も貧し、知足の人は貧しと雖も而も富めり
山門入口にある掲示板に掲示されていたから、ここが禅宗のお寺、それも曹洞宗の寺院であることを思い出した。
橘湾を臨む東長崎の発展は、矢上町を中心としていたのだろうと思う。
古くは長崎街道の宿場町として栄えたところで、路傍のたたずまいに往古を偲ぶことが出来る。
一帯は山に囲まれた市街とは異なり、平野部が諫早に向けて広がり、八郎川や現川の流れが港にそそいでいる。
寺域は東長崎支所の裏側にあってり、番所橋から旧道を入った小学校の奥にある。
創建は享保二十年(1735)、諫早藩の藩士である藤井氏の菩提寺として開基し、禅刹天祐寺の僧大亀圓晟大和尚が開山。
こうした関係から諫早藩の士が帰依し、のち壇野氏が寺領を寄進するに及んで寺門は殷盛した。
「笑うからおかしいのであり、泣くから悲しいのだ」と聞いたとき、悲しいから泣くのであり、面白いから笑うのだと思っていたので、考えてみればなるほどそう言うことかと思った。
なるべくは、形だけでも穏やかな笑顔でいたいから、まずは形だけでもそうありたいものだ。
笑顔でいれば普通腹の立つようなことがあっても、不思議と腹が立たない。
そうすれば後で後悔するようなことにもならずにすむ。
とはいっても、人間誰しも腹が立つこともある。
ただ普段怒りっぽいと、自然とその様な人相になってくるから注意もしたいものだ。
大分県の北東に位置している国東半島、その中央に両子山が聳えており、この山を囲むようにして多くの山と多くの寺院が存在している。
その両子山にある、両子寺は九州三十六不動霊場めぐり一番札所である。
古くは宇佐八幡の信仰をもとに開け、仏教の渡来と共に神と仏は同体であると言う垂迹思想をとりいれ、天台宗における六郷満山が形成されていった。
今までにも何度か触れてきたが、六郷満山の開基は、仁聞菩薩に結縁していて、八幡大神の化身というのがこの辺りに伝わっている有力な説である。

九州三十六不動霊場二番札所 神宮寺に向かう国道からも周防灘が美しかった。
国東半島の中にある霊場ものこり二カ寺となってきたのだが、この蒼い海がいつも煌びやかに輝いていてくれたのは幸いした。
田深の集落から両子山に入る隘路を登ってゆくと、大嶽山の麓に向けて神宮寺道がのびている。
ただこの道で良いのかと何度も確認したくなった程で、この、苔むす石段をみても如何に山奥に鎮まっているのかが理解できる。正に日と影である。
神宮寺の山号となっている大嶽の峯は標高560mで、両子山の東側にそびえていてその山ふところに抱かれています。
寺名は、いわゆる宮寺の意味で、神仏習合を最もよく表しています。
六郷満山では本山本寺八カ寺の一つに鞍懸山神宮寺がありましたが現在は廃寺、本山本寺十カ寺の大嶽山神宮寺のみが今もその名を留めているのです。

六郷満山末山本寺十カ寺の一つである成仏寺は、短い参道階段に二対の仁王像が安置されている。
登り口に立つ仁王像は、鬼会の際に台石から倒れ、現在は膝以下を台石にコンクリートで止められている。
阿形像は、左手に持つ金剛杵を肩に構え、右手は拳にして腰に当て、吽形像は、右手を肩に当て掌を前に開き、左手は拳にして腰に当てている。いずれも額に数本のシワが表現されている天保二年(1831)の作である。

周防灘に面した国東の海岸は、蒼く光っていた。
途中の富来浦から富来町を通ると、宝くじに当たる富来神社があったけど、通り過ぎて山々の峰に車を進める。
窓を開けて走っていると、野鳥の声がしきりに聴かれはじめてきた。
このころは陽の光があったのに、20分ほど走るとライトを点けようかと思うほど仄暗くなってきた。
まだ昼を過ぎたところなのにと思って上を見れば、天にも届きそうな鬱蒼とした樹林が太陽の光を妨げていた。
なるほど。そう思ってライトを点けた。
それから暫くすると、周囲が明るくなった。
門前にある駐車場は大きなスペースについたから、頭上は、鬱蒼と覆う木々ではなく太陽の光になったのだ。
修験道における峰入りは欠かせない行事である。
寺を出て山野を踏破し、心身を鍛える行は、煩悩を去り、衣食住の欲を去り、清浄に仏道を修業する「頭陀の行」を実践するもので、六郷山では仁聞菩薩修業の跡を巡り、最後は熊野石仏の前で護摩を焚いて終わるものである。
国東半島の北西に位置している香々地町は、山間を流れる竹田川に沿って拓けている町で、上流にはハジカミ山、黒木山、尻付山に囲まれている山里であり、この辺り一帯は夷谷と呼ばれ、集塊岩が風蝕されて独特な奇岩が素晴らしく、夷耶馬渓は国立公園に指定されている。

山岳密教の地、国東半島。
その北の玄関口とも言える真玉町は、小さな谷に赤坂川・真玉川・臼野川が流れている。
九州三十六不動霊場めぐり第6番札所の無動寺は、主流の真玉川上流の黒土村にあって、写真のように、高さ150mの大絶壁を背にして鎮まっている。
開基は奈良時代、養老二年(718)、仁聞菩薩に起因、六郷満山の中山本寺として最盛期には末寺十二坊を構え、約百名の僧侶が修行に励んだ満山中でも屈指の道場であったと住職は言われます。

ご存じの通り、宇佐神宮は宇佐八幡ともいい、全国四万余りの八幡宮の総本山。
伊勢神宮に次ぐ宗廟として、古く奈良時代から朝廷の崇敬を受けた名社で、天皇即位や国難のおり奉幣のため、はるばる宇佐使が朝廷より遣わされたとされる神威の高い神社であります。
その宇佐神宮から、国道213号線を国東半島へとすすみますと、九州三十六不動霊場巡礼は国東半島に入ります。
しかし国東あたりの磐山というのは、水墨画のそれに似ているか、いやむしろそれよりも美しくて、この山容というのは惚れ惚れとするものがあります。
山号「大岩屋山」にもなるほどと肯けるところだ。
しかし、これは眺めの話であって、六郷満山の峯入り行場としては一気に嶮岨、その厳しさを感じる山に変化するのです。
縁あって国東の地を巡る途中、とあるご住職と蕎麦の話になり、お勧めいただいたのが「両子河原座」。
「走水開運そば」を味わってみると良いとの事だから行ってみた。
お店は美しい山々に囲まれていて、とても清々しい気持ちになれる。
どうだろうか、もうこれはひとつの味になっている。
ただ、いつの日か書こうと思うのだけど、美味しいそば店にはオーラみたいなものがあって、そのオーラには一つ一つの理由があるものだ。
店に入る直前の瞬間と、入ってからの席に着くまでの二段階。
これで、そのオーラを感じることが出来て、もしも美味いなら、メニューに目を通すまでに美味さを確信できている。

大分県の最北端に位置する中津市は、中津城下町の侘いを色濃く残した歴史の里であり、また、菊池寛の小説「恩讐の彼方に」でも紹介される青ノ洞門、開基以来600年の古刹羅漢寺など、中津市の南部、英彦山に源を発する山国川と、その支流一帯からなる大峡谷は東西36km、南北32kmもの一大景勝地であり、悠久の流れをうつす水郷の里ともいえる癒しの地ともいえます。
また、福沢諭吉が一万円札の顔となってからは諭吉の里としても脚光を浴びており、3歳から21歳まで起居した藁葺きの母屋や諭吉が勉学に使った荒壁の土蔵、そして福沢記念館があります。館内に展示してある「学問のススメ」の原本を始め遺品、遺墨、著書が展示されている。
三明院のある、永添は市街から南部の農耕地帯にあり、文政元年(1818)には、頼山陽もこの地を訪れている。
戦後の軽薄な世相を憂い、道徳学を提唱した広池博士が育ったところでもあり、いわば、多くの碩学者を輩出した由緒ある土地ともいえよう。
そしてこの土地に開基されているのが、三明院です。
最近特に思いますのは、世界の人口に、動物などの生命を加えたなら、もうそれは65億の人に加えて何百億、何千億となるのでしょう、そして1人から発射される精子というのも何十億とあるわけです。そしてその精子が卵子と結ばれて成長して今ここにある私。これは誠に不思議な有り難いことです。
大分川の右岸に拓けている市街地から南へ。
高台に向かってすすむと九州三十六不動霊場霊場めぐり第九番札所は、総社山 円寿寺さん。願かけ不動として有名な寺院です。
古くは大友氏の居城があった西山城址に隣接している境内に六坊が甍(いらか)を並べていたとの事で、付近には、元町石仏・岩屋寺石仏・臼杵石石仏など見応えのある石仏群が並ぶ歴史の地です。
現在のところ本堂は修復中でありましたが、ご住職のご配慮により御本尊の所までご案内いただきました。こちらは九州三十六不動霊場会の事務局でもありますから、ご住職にはまた様々なお話しを頂戴いたいておりまして、それではお詣りをと1人にさせていただいた際、身を清め御本尊のすぐ近くまで近寄らせていただいたのです。

不思議はその時に現れました。小生の自宅道場と同じ波切り不動尊のお姿なのですが、前に座らせていただいて暫くすると、小生の周りに、みなぎってくるような霊威があるのです。
先ほども記したように、本堂は改修中で、御堂は御本尊の不動明王のみがおられるのだけど、この場のすべてが大盤石であり、こちらのお不動様の光背には火炎があり、盤石の前には水波がただよっていて、じっと前に座らせていただくだけで、不動尊の慈悲に満たされてきたのです。
このような表現すると誤解されそうで嫌なんだけど、さらに続けるなら、不動だけど動の働きを持たれているのです。まさにお不動さんには不動と動、実在と現象の二極があって、この場を慈悲の働きが包んでいる事を実感させていただいたのです。
今日から大分県。九州三十六不動霊場を逆打ちでと発願したのであるが、先日から結願地が鹿児島になっている夢を三日間連続してみたのだから、何らか訳があるのだろう。そう思って最終札所を鹿児島とした。
とはいっても、順には打たない。逆は逆打ちで今回からの大分県も逆に10番札所から巡る。
そう決めて始めた途端に北朝鮮行きの話をいただいた。
豊ノ国と称した大分市の変遷は、建久七年(1196)守護職に任命された大友能直が入国し、後裔四百年にわたる政権のもとに発展しています。
キリシタン大名としても知られている二十一代大友宗麟は、当時キリスト教や西洋文化を積極的に取り入れるなど南蛮貿易を盛んにして、現在の大分市である府内及び臼杵港には中国船やポルトガル船が入り国際都市として繁栄してきました。
後には、天下布武の政争に敗れて大友支配は終焉しますが、藩政下では府内城を中心に産業の隆盛を図り、明治維新ののちからは近代化へと大きな脱皮をしているのです。この辺りの背景はバテレンと宗麟の時代に詳しい。

本日の巡礼地、九州三十六不動霊場第十番札所 臨済寺は、大分市南部の大道隧道を過ぎた永興山にあります。
もとは、大分川の左岸にある尼ヶ瀬村というところにあり、修験寺で天台宗法系の聖護院末大法院と称していたが、明治5年より比叡山延暦寺に属しています。明治24年には、秦 秀教上人の代に現在の地に御堂を移し金龍山臨済寺と改称。明治39年に不慮の火災に遭うも、加持祈祷の旺盛な信心によって再興し、嗣いで順応大僧正の努力によっても寺格は次第に整えられ、現在の順照和尚の代には「厄除け不動霊場」としての信仰を集めております。
腹という漢字がありますな。
部首は「つきへん」ではなく、「にくづき」で肉とか体を表してるわけです。
この部首というのは、脳・背・肺とか五臓六腑のいろいろな部分を示している漢字には、この「月」が入ってるわけです。
そこで、「腹」。この右側の「ふく」は文字どおり「ふくれた」の意味で、体の中のふっくらした場所が「腹」というわけです。
そして我々は「腹」を「おなか」と言って、体の中心と言うほど大切にしていますな。
腹をこわせば飯も入りません、何か力も湧かないから、温めてみたりいろんな事をします。
はたまた「腹に一物」と言うことや「腹を探る」とか「腹を固める」「腹を読む」などの諺のような物事を考えているところのようにしている所、つまり「こころ」があるところと考えて「お」をつけて尊重しているようなわけです。
今回ご紹介する書籍の著者は駒形蕎上人店主の平沼孝之氏。
本書の根底に流れているのは一種の応援歌であろうと思われます。
蕎麦と言えば、どこでも細く線条状で出されますが、ずっと前は米の代わりか、そばがきで食べるのが中心だったようですな。つまり、玄蕎麦から鬼皮だけをとった「抜き」だけを米の代わりにして食べる代用品か、それを粉にして練って茹でたってわけです。
そばがきならば、蕎麦粉と水かお湯があれば小生にも不細工ながらも出来ますし、お腹も膨らみますから味を楽しむよりも腹を満たすところで重宝したのだとも思われます。
とはいっても、そばがきの場合だと時折「ここのこれで充分」などと酒とそばがきで帰るお客さんも見たことがあるほどで、いろんな「通」があるものだ。
蕎麦粉がないと、蕎麦の話など出来るものではない。また、蕎麦粉がないと粉の話など興味を持たなかったろう。
今回ご紹介する粉(こな)は、文字どおり粉の話に終始する興味深い書籍だが、まずは蕎麦粉のおさらいから。
玄そばは、外側から順に、鬼皮、甘皮、胚乳部、胚芽という構成になっておりますな。玄そばから、鬼皮を除いたものが、「抜き」。そして、この「抜き」を、挽きながらふるいにかけてゆくと、何種類かの「粉」が出来上がると言うわけだ。蕎麦粉の種類とは、一番粉から三番粉。
一番粉の色は純白で風味には乏しいが特有の甘味や香りを楽しむことが出来ます。「抜き」を軽く粗挽きしますと胚芽の中心部分が砕けてきて、これをふるいにかけて選別した粉。
さらに挽くと一番粉にならなかった胚乳部や胚芽が砕けてくる。これをふるいにかけると二番粉。色が薄い緑色になっていて蕎麦の香りや風味が一番出やすいと思う。三番粉は残り全ての甘皮までも挽かれるから香りは一番強い。
もう一つの粉は、挽きぐるみ。
鬼皮だけをとって、甘皮まで一緒に挽き込むから、色は随分な黒っぽさを見せる。
今日は朝から東京の神田あたりに出かけておりまして、そういえば蕎麦の発祥は東京だと思っていた頃があったなあと思い起こしていたのです。
発祥の地が大阪の西区にあることを知ったのは、蕎麦の蘊蓄という書籍によるもので、当時すぐその場所へ飛んでいったことを思い出します。
これがその時の写真で、横に昭和六十年三月十一日大阪のそば店誕生四百年を祝う会によって建立されたと記してあります。

そして裏側には次のような説明が記してありました。
天正十一年(1583)9月、豊太閤秀吉公大阪築城を開始、浪速の町に数多、膨大を極めし資材蓄積場設けらる。ここ新町には砂の類置かれ通称を「砂場」と呼びて、人夫、工事関係者日夜雲集す。人集まるところ早くも翌天正十二年古文書「二千年袖釜」に、麺類店「いづみや・津の国屋」など開業とある。即ちこの地、大阪築城史跡にして、また本邦麺類店発祥の地なり。坂田孝造 諾
いつでも気軽に食べられる。美味い・安い・早いだったか、牛丼ブームやマクドがやってくる前からずっとファーストフード感覚で食べていたソバ。ところが1997年だったかある日、乙訓JCの 橋本光夫先輩に誘われて「かんだやぶそば」に行き せいろうそば を頂いた。
するとあの淡い緑色をした蕎麦が登場、このツユは一体何だ、蕎麦の粋とはと、興味が広がってきて、こだわり無く口にしてたソバも、評判を聞きつけてこだわった選択をするように変化してきた。
それからというもの店までの景色や周辺の文化施設や史跡・自然など店に行くまでの道のり、また、店で出される蕎麦を興味深く見はじめて、ついに粉や粉の挽き方、打ち方、茹で方、水、香り、つゆ、薬味など、細かい事も気になりはじめ、蕎麦はいうのは、その土地の特色も楽しめる素晴らしい食べ物なんじゃないかと思い始め、これは出張の際に味わう蕎麦にも影響し始めてきたのです。
さて能書きはここまで。
そこで今回は、食べたい7つの郷土蕎麦を北から順に記そうと考えております。
いわゆる「変わり蕎麦」じゃなくて「地域の特産的なお蕎麦」ですが、健康にも大変宜しいお蕎麦のこと、是非ご覧下さいませ。
有明海から国道444号線を鹿島市内へむけて走ると札所が見えてくる。
車を止めて境内を歩き始めると、併設されている、誕生院保育園の園庭の方から一所懸命さが伝わってきました。ハーイ!という元気なお返事が聞こえてきたためです。
霊場を巡っていると、このような周囲からの影響力に触れられる機会があって、これも小生の霊場巡りの楽しみとしているところなのですが、これと似たような経験で、「漸く(ようやく)やっと」とおもえる瞬間もあります。
随分前の記憶。これが偶然に通りかかった場所で蘇ってくるのはデジャブにも似ていて、様々な瞬間に訪れるからこれも楽しいのだが、時折、アレ?どっちの世界かなあ、なあんて思う事もある。
それは今回のように境内に入った瞬間であったり、様々なんだけど、何か土地が持っている性格とか性質みたいなものがあって、それが園庭の一所懸命な園児たちを育てているのかと思った。
それもそのはず、この御寺院は、言宗の中興の祖である興教大師 覚鑁聖人の生誕の地に建てられた寺院。
聖人様の誕生された場所なのだから、素晴らしい園児も育つに違いない、そういった意味からも小生、なおも漸く故郷に帰らせていただいたかの様に思えてきたのです。

さて、今回は全くの小生流、京都で蕎麦店を選ぶ為の小ワザのご紹介です。最近ムカシの少し写真を屋根裏から掘り起こしておりまして、そこで随分前に行った長野県のお蕎麦屋さんに飾ってあった「食べ方」が出来てきました。そしてこう書いてあるのです。
これが蕎麦を楽しむ方法と読めば、確かにそうですが、しかし京都で蕎麦店に入る前、とりわけ京都のお店をどうやって選ぶのかと考えたわけです。
特にこの京都。
近畿の方ならいざしも、ほとんど蕎麦には縁がなさそうだと思われがちで、おつれすると大抵ビックリされます。もっとも、「京都で一番おいしい店はどこか」と聞かれても、おすすめの店ならご紹介しますが、おいしいかどうかは行って決めましょうというのです。
第一感想を言うのは「蕎麦を食べる」その人、求められる感覚や個性など実際に訪ねて口にして頂かないと判らない為です。
とはいっても、これだけ蕎麦屋さんも多くなってきますと、ある観光にお越しになった方にも、ほとんどが常連がお客さんという、京都の美味い蕎麦を味わって欲しいもの。
そこで今回は三つのポイントに分けて、小生なりで恐縮ですが京都で蕎麦を楽しむ方法を記してみます。
九州三十六不動霊場めぐり第二十番札所の大慈禅寺は、九州の曹洞宗本山として、古くから人々の信仰を集めている禅寺です。
創建は弘安元年(1278年)で、曹洞宗の開祖である道元の高弟寒厳(かんがん)禅師によって開山されました。
寒厳(かんがん)義伊文書の四幅や梵鐘(ぼんしょう)といった、数々の貴重な寺宝が保管されており、これらは、国の重要文化財に指定されています。その他、掛け軸や仏像、石造物なども保管されています。
お不動さんは、以前は境内の水掛不動尊だったようですが、現在は本堂内におられます。
本堂の中央には本尊釈迦牟尼佛、両脇侍に迦葉、阿難両尊者を安置されていました。
人の己を知らざるを患えず
これは孔子の言葉で、「人を知らざるを患うる也」と続く論語であります。
この一文に触れたのはもう6年前になりましょうか、その頃はもボランティア関係において他の方とお話しをするような機会が多く、大勢の方たちとボランティア事業を通したまちづくりをしておりました。
そのころに、人には細やかなことまでもが見えるというのに、自分のことは見えていない事を学ばせていただいていて、そんな事などもう身に付いていたつもりが、やはりツモリハツモラズ。
昨日は全く持ってこれの再現でありました。どうも批判的に見ていたようで、今、反省しております。
しかし、この様な自省ばかりで実際には何の役にも立たず、上手く行かせてナンボ、成果にしなくてはなりません。成果の獲得や達成、また次の目標が得られないなら、その時間は自分もその参加者も成果を得られないわけで何よりも勿体ない。
そこで、今回からは本日の反省を活かしつつも成果を得る方法、また、いかにその組織を説得して動かせることかと言う点を探偵的な視点も取り入れながら記して行こうと今回のようなタイトルで記している次第です。
佐賀県の武雄市周辺を通過して行こうかと思ったけれど、このあたりには巨木が多いのを思い出した。
「武雄の大楠」は武雄神社にあるご神木で全国第7位の巨木。「塚崎の大楠」は、樹齢三千年ともいわれている。「川古の大楠」は全国第5位を誇り「黒尾の大銀杏」も樹齢300年と言われていて、季節が秋であればなあ、などと山あいの道をひた走る。
女山峠から徳連岳に入り始めた頃、「道は二つあって一つは険しい」と九州三十六不動尊霊場 第26番札所 無動院のご住職に言われていたのを思い出す。
排気量不足を感じた事がなかったトヨタ ヴィッツが上がらないほどの急勾配だったからで、これはどうやら険しい方だと判り始めてきた。

お釈迦様が入滅されてから、次の仏である弥勒菩薩がこの世に現れるまでの五十六億七千万年間は、いうなれば仏不在の空白期間。
そこで弥勒下生までの間、六道(地獄〜餓鬼〜畜生〜修羅〜人間〜天をめぐって人々の救済にあたり、人々の願いを残らずに聞き届けるまでは菩薩界には戻らないと誓って、いまも頭を丸めたお坊さまのお姿で六道遍路の旅を続けておられるのが地蔵菩薩です。

JALのWebサイトに現れたこのニュース。
2007年4月、JALはグローバル・アライアンス「ワンワールド」に加盟します。
これはJALが、世界を代表する7つの航空会社によるグローバルアライアンスに加盟しますってニュースで歓迎できる。
例えば図のような世界一周をするとして、アメリカン航空、フィンランド航空、ブリティッシュ・エアウェイズ、キャセイパシフィック航空、エアリンガス、イベリア航空、ラン航空、ランペルー、カンタス航空、そして日本航空の翼を利用できると言うわけ。
幸福と不幸は一対、表裏一体、裏腹であります。
「楽あれば苦あり」「苦あれば楽あり」、「禍福はあざなえる縄のごとし」「人間万事塞翁が馬」と、小生の場合、何となくだけど不幸と感じたり、幸せと感じたりすることと言うものが、交互にやってくるように感じることが多くあります。
最近の小生の場合ですと、正月に悪いことがあれば、今年一年がずつと悪いんじゃないかと思いこんだり、逆にオミクジで大吉なんて引き当てると、もうそれだけで幸せを分けてあげたい位の心持ちになるのです。
実は小生、和菓子好き。
京都市内には愛して止まない和菓子店が数々あって、今思い出すだけでも嬉しくなってくる。
今後このカテゴリでは、これら京都で楽しめる甘味系を記して行こうと思っているのですが、今回はまずお団子。
初めて食べたとき以来変わらない懐かしい味でありながら、ここでしか食べられないお団子なのです。
これを美玉屋の「黒みつだんご」といいます。