全てとはいわないが、小生のところに来られる方の中には、たまに顔つきの良くない人もおられる。
暗くて随分沈んで意を決してこられたのだろう、そんな事が暗に想像できるほどで、向かい合った瞬間から涙をにじませていたり、緊張で顔が引きつっていたりするのです。
そういう方が、何度かカウンセリングを続けるうち、ふと笑顔を浮かべて頂ける、そんな時は何かホッとして僕の目に涙がにじむこともある。
僕はまだまだ未熟で特に女性の涙の本質が理解できずに、いや今はもう理解というよりも、トンチンカンな事を言って笑いを買うような、そんな笑い方でも先ずは良いのでないかと考えるようにしている。
夫婦間の問題を解決するというよりは、いやむしろこればかりに限りある事ではないのだけど、笑いがないような状態では上手く行くように思えないのです。
つまり、「笑えない」環境では「笑える」状態へ変えることも出来ない、それが為の環境作りがまず大切だ。その様に考えたのです。
だから、ご夫婦のどちらかとお会いするときには、まず私の方から多少スベっても出来るだけ無邪気に笑いかけてみる。しかしこれはなかなか難しい。とても難しいのである。
僕の気持ちがフラットでないとき、また自分自身に問題が有るようなときの「笑顔」というのは、完全に見抜かれているものだから、のちのカウンセリングに影響を与えてくるのです。
要は、私自身の問題は相手に反映する。と言うことであって、クライアントとの信頼関係という意味で障害が生じてくる可能性が高いということです。
だからこそ、自分自身には微塵も問題を持っていてはいけない、しかしこれは生きている以上不可能だ、では無理だと承知の上で身を清浄たるものに近づけよう、というのは滝行であったり山行であったり、不動尊への信仰ということになりましょうか、いつも自己の問題には気を遣うところであります。
さて、笑いにも様々ある。
大げさに笑ってしまってクライアントに威圧感を与えてしまったのではないか、そう一瞬慌てたこともあった。
鼻先にかけた笑い方をして馬鹿にされたように感じられたのではないか、そう慌てた。するとその表情をクライアントに見抜かれていた
高笑いは何にしろデリカシーを感じないものだし、また、ヘラヘラと笑うのは軽薄さを感じられてしまう。おまけに薄笑いというのは不気味さ、女性に対してニヤニヤ笑ったが最後それは下心の現出、セクハラと言われても仕方ないところになる。
そんなことを意識してカウンセリングに向き合う自分は、これに向かない。
今ここで、告白しておくが、そう感じて、もうカウンセリングの現場に関わることを止めようと思っていた時期がある。
いつかも書いたが、小生は探偵調査の現場からは退いている身分だから、ここから身を引くと後がない。それなのにである。だからその時期、カウンセリングの途中、胃に激痛が走ってたまらなくなって他のカウンセラーに変わっていただいたことも有るほどイヤだったのです。
ところが、クライアントにヒントを頂いてからは小生にも変化があった。
それは、もう60歳を前の夫婦からのご相談。
先に、まず奥様からのお話をおききすることになる。その時の奥さんは鼻先で笑う引きつった顔だった。
しばらくお話しをお聴かせいただいた後で、小生「笑ってでもいなければ、やってられませんねえ」と話しかけてみた。すると軽くうなずいたあとで、声をつまらせて泣きながらも今までの複雑な家庭の様子を一気に話された。
この涙より深い悲しみが、さっきの笑顔よりもまだ深いところにあったのだ。
さっきの笑顔は、その苦しみを隠すための仮面だったのだ、そして、自分の役割はこれらきっかけと共に、「一緒に笑える環境を拵えること」これなんだと感じたときに、またカウンセリングのその後で、それら「一緒に笑うとこと」を家庭にお持ち帰りいただけるようになればいい。
こうすれば円満な家庭環境は必ず増えいって、私の指命はそのお力添えをする事。これが今となっても大きなヒントとなっているのです。