食べ物の秋に思うこと

先日の「このブログの在り方」以来ブログと日記の差というものが全くわからないのですけれど、何とか今日も日記らしくなりますようチャレンジです。

さて、今日は外にしばらくおり、そう汗ばむわけでもなく夏の終わりを感じておりました。素足になって足をつけてみますと鴨川の流れはいつもよりたくましくて、すでに夏の終わりではない水の冷たさを誇っていたのです。

また、街路樹には何らかの実も見え隠れし、何より蝉が鳴く仕事を終えたのか、どこからもその声は聞こえないものですから、なんだか少し寂しくなり、樹の多いところへ移動してみたり。

しかし、やはり蝉の声は聞こえずじまい。
まだ衣替えの準備も出来ていないというのに、今日のように激しい変化を目にしますと、季節が変化していても対応出来ていないと言うあせりも湧いてまいります。

この様に自然に変化がありますと、ああ、これからの季節も生きられると喜び、生かされているという有り難みを感じるというのに、いつもこれは後手後手というわけです。ここ十数年、も何度も季節の変化が訪れてからその準備をする。その様な繰り返しなんです。その繰り返しをしているなあと思うのです。

次におとずれる季節は秋。とりわけ今の季節は初秋です。
私の場合は食なのですが、さてみなさんは秋というと、どんなイメージを持っておられるのだろうか。

いや、そのまんま、「あんたはいつもそうじゃない!」と言われても致し方ないのだけれど、僕は秋こそは食文化中心の世界に突入するのです。

他の、春や夏や、冬はどうなのか?と聞かれても、秋こそ食文化はびこる季節。第一に蕎麦、第二に魚、第三に鍋、第四にと数えても、多分二百くらいまで続くのは秋だけで、他の季節は百九十ちょい。だから秋だと。
秋はやはり食なのです。

とまあ、ネタのような事ばかり書いても仕方ありません。
今回は少し、食についてのマジメな思いを書いてみます。

というのは、美味しいものを頂いたり感じさせていただく度、美味い「食」というのは、一方で無常をも教えてくれる。これほど判りやすい気づきを与えてくれるのは他にないなあと思っているのです。

なぜなら、どんなにおいしい食べ物でも、作り手が作り方は勿論のこと、旬を間違えて扱ったり、そのもの自体も時期がずれたり、つまらないものと一緒になったり(朱に交われば赤くなる的な)したら最悪。
モトの色合いや風合いが一瞬にして飛んでしまう。

その急激変化には、私のようなものにでも、敏感に反応することもあり、ましてや美食家を気取るような人間には恰好の攻撃ネタにも成り得ない。

その様にも思うからこそ臆病な僕は、ホウレンソウとか、礼節という煩わしいものには特に注意しているのかも知れません。

だから、これは自分の姿である。
その様に思う。思えるから、食にも無常を感じたりするのです。

短い間に魅せられる魚の旬。創られる技術や味付け。
そしてそれは人間の口に入りのど元を過ぎるまでなのですね。
つまりこれは魚だけに限らない全ての生き物の縮図ではないかと、そう思っているのです。

魚でたとえをして申し訳ないが、私はまだ動いているような魚を目の前出されたとき、有り難うと目を見ながら頂く事が心して出来る様に試みる。

我々は、他の生物と同じように生まれてきた。そして他の動物が懸命に生きていようが、その事情があるとしてもお構いなしに他の生物のその命を頂く事で、我々は生かせていただいている。私は「頂きますの」意味はそういう事だと思っていて、心にこれが根付く事を目指している。だからこそ今生きている事への感謝の源とも言える。

ですから、魚を頂くときも礼節、板前さんやお運びの方へのホウレンソウ。
これが僕のライフスタイルなのです。

これについては話が少しそれるのです。
しかし、小生の「頂きますと」には少し昔話があります。

小生、モンゴルに行くまでは、いただきマスは、人前だけ。
人前で言っていても、みんなが言うから、儀礼で口にしていただけだったのです。

だけどモンゴルで食事をしたときに初めて心から言えた。

何度か目のモンゴル。
日本にいることよりも、大自然に触れさせてあげたい、という親御さんのリクエストによって遊牧民の方に御世話になっていた頃。
何度目かにはゲルでの生活を私も行うことになり、ぬくぬくとしたウランバートルのホテルを出てから3日目。

一所懸命に生きてきただろう他の生き物、その命を止めた、そして肉の塊にした。

小生の育ちは、農村ではないので。
だから、遠来のお客様が来られたからと言って、鶏の首を刎ねて「鶏鍋」に、また「鶏のすき焼き」にという様なことすら経験にはなかった。

だけどそれは、二足歩行の鶏ではなくって、四足歩行の他の生き物で行った。
大きな生き物を、いくつかの小分けにしてゆく行程では、臓器などもまるで引きづり出すようにするのだけど、その時に付いた血液なども洗い流すような水なども十分無く、それはもう其処になれるしかなくなって適応してゆく。そして食した。
次の日早朝、草原の中でも取りわけ小高いところに行って、般若心経をとなえた時、私の目から滲み落ちていたのは、他の生き物すべての血かもしれぬと、そのくらいに食のことを考え直した事があった。

「初心忘るべからず」という。
私は、未熟であるがための失敗をいつまでも忘れないようにしたい。「頂きます」の意味が見えにくくなったときには、このことを思い出して初心に帰ろうとする。

初心は、佛教で言う菩提心。
悟りたいと願うこと。そして何よりも悟りを求めること。
これが菩提心で、これは心が発する意味の発心とも言われ、初めて悟りを願うことを特に「初発心」とも言います。いつも初めての気持ちになること、そして悟りたいと願うこと。

我々人というのは、限りない欲があるようです。
だからこそ、悟りたいと願うこと。そして悟れるようにと精進するのでありましょう。

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