離婚と自立

夫婦で生活を共にする上で大切にしなくてはならぬことは数多くある。しかし、それらのなかで特定の何かが、ある時、ある変化において特に強調されると言うことがある。例えば、かっては夫婦愛などということが、極端に強調されたことがあった。しかし最近の傾向としては個人主義的な自立ということが大いにもてはやされているように思われる。

テレビや映画を見ても個人主義的な自立のすすめを説いているような題材が多く目にすることも多いのではないか。
このカテゴリやタイトルに記しているように離婚や調停などといったキーワードも多い。

自立自体は大切なことで、今までに「自立する」という考え方や行動は、我が国で認められるような風潮に無かったから、そう言う意味では賛成だ。ただ気になるのは自立の中身で、ただ単に夫婦が離れる(離婚)と言ったことで自立(自由)であるというところだ。

大抵のケースでは、自立したハズなのに、大きくハズれて孤立している。
ここが、調停に申し立てる前に思うべき事で、離れたり切ったりするだけなら、結局は孤立に陥って自立にはなり得ないことだ。

調停の次は裁判と、離婚を出るところに出て話しをしたとしても、もうそれで夫婦の関係を切ったかの如く錯覚して、幻想の上で第三者に託して自立したような心持ちの人は多く見てきた。
そもそも夫婦関係というのは時に楽しく素晴らしいが、時にわずらわしく悪縁などと感じられる。しかし、本質的には、それらが自分自身に課せられた不可解な人生の課題を逃げることなく味わい尽くそうとする生き方こそ自立と言うべきなのかも知れない。これらを実践している夫婦も多く見ているがこれはこれで楽しそうにしているのは何気に自立していることの自覚を持っているからだろう。

夫婦の関係を、素晴らしい関係とするか悪縁とするかはなかなか割り切って考えられるものではなく、この両者は混在して時は進んでいる。従って真に複雑に「日々」は折り重なり、新たな関係を積み重ねている。

調停から裁判になることも予想していることで、切るのは真に簡単である。

簡単な事だから、いつでも出来る。

もう、考える時間はないだろうか。

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