このカテゴリ「おいしい食べ物」について

このカテゴリでは、小生の感じた「おいしいもの」について記そうと考えています。

子どもだったころを思い出して、美味しかったもの。
幼少の思い出話となりますが…嵐山は渡月橋北詰の「京嵐山」のざる蕎麦。こいつは家族で岩田山に猿を見に行った帰りに家族揃って食べたもの。ダシが旨かったので今も思い出すと唾がわく。そして、今はないけれどホテル東山閣の地下レストラン。生まれて初めてのコース料理を味わったわけで、スプーン・フォーク・ナイフは家で練習してから行ったおかげで余裕を持って味わった。緊張していたのだけどここで飲んだコーンポタージュは旨かった。

10代に美味しかったものは、定時制高校に通いながら、興信所の調査員をしていたころ先輩調査員に頂いた「緊張を緩和させるための酒」。それは、長時間の張り込み尾行のあと、次の調査現場までのインターバルまで、充分な睡眠がとれる眠るための睡眠酒。天神橋筋商店街なら4丁目あたりや、梅田なら東通り商店街。あるいは阿倍野筋、谷町通り界隈などの立ち呑みで30分くらい一気に呑んで睡眠をとる。そして現場の繰り返し、あの串カツと焼酎のお湯割りは旨かった。

そんな小生に、世の中にはこんな美味しいものがあるのかと、感動を与えてくれたのは、近畿女性探偵社の金子正博氏。
今はありませんが、氏は「近畿女性探偵社」のオーナーでした。
そもそも、金子氏は小生の師。
盗聴器や盗撮カメラ、車用の発信器など探偵用の調査機器に関しては、全てこの人から学んだ恩師です。

この方がまたまた豪快な人。
はじめてお連れいただいた食事で味合わせて頂いたメニューというのがまたすごい。

「ステーキ」を1キログラム、ハンバーグを2枚、スパゲッティー1人前、それにブランデーのレミーマルタンを1本。それにクレソンのみが山盛りの大盛サラダ。

これも今はありませんけれど、前の読売テレビの向かい側にあったビストロ、レアとミディアムに分けてシェフに焼かせて肉の味わいを教えてくれるわけです。

この日は午後7時頃からこのお店に入ったのですが、午後11時にはこのお店を出ているのですから、どんなに豪快な食べ方と飲み方をしたのか想像できるでしょうか。
ちなみに、これらは一人分のサイズ、干支で言うところの一回り上である金子氏は当時31歳の時、同じ分量を食べておられ、格好いいなあと感じたことを思い出します。

それからも、数回にわけフォアグラやトリュフといった高級食材と高級店と高級ブランデーという三点セットなどを覚えさせていただいた氏にはいまだに感謝している。

長くなりました。次回につづきます。

このカテゴリ「おいしい食べ物」について」への3件のフィードバック

  1. 金子正博

    59歳になった金子です、この様な場所で僕が生きていたとは?思いも寄りませんでした、49歳で死に生き方の方向転換をして新しい人生を歩んでいます、そして人生で一番仕合わせな時間を過ごしています、分相応に慎ましく、身に必要なモノは得て、身に余るモノは身につけない・・・生き方をしています、しかしながら、なぜか?またオンリーワンに成りつつあります、私は困った者です

  2. 瀬戸 啓一朗

    社長!ご無沙汰です。
    コメント有り難うございます。きっとこの瞬間を待っていたのです。ご記入いただいたウェブを拝見いたしました。メールにて連絡させていただきます。感謝。

  3. 金子正博

    最近、全てのモノにこだわりが無くなった、自分の基準が変化したためであろう、その変化とは、生命の誕生が宇宙のゴミが集まり、重力が生まれ、星が生まれ、自分が生まれた、つまり、自分は宇宙のゴミから成り立っている、権力やお金持ちに恵まれても、人の倍食べることも寝る事も、Hも倍は出来ない、自由は二つあって、責任が伴う行動の自由と意識の自由で成り立っている、お金が無いと悲惨な目に遭うがありすぎても困る道具に過ぎない、誰かが意識する論理を言っても、ゴミが喋っている事と聞き流し、自分を含め世の中はゴミが正義を語っている、一方、僕は、真義や道義を大切にしてゴミでありながら社会に奉仕することで貢献したいと願っている、正義は時代と共に変化する、正しいと思っていても時代が変わり悪い行いになる事がある、よって、自分を含め多くの人を仕合わせにする仕事を全うして、精神的に気楽な人生を過ごしたい生き方に変化した、
    さて、まだまだ、世の中にはおいしいモノが存在する、これを食べるにはその人達と出会う必要がある、このお金は稼ぐしか無い、必要経費である、それでもゴミがおいしいと思ったいち時期の思い出であり、痴呆になると忘れる程度のモノであると思う、自分はやはりゴミから出来ている、

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