これも、まだ小生が人様をお連れして巡礼に行き始めて間もない頃の話し。
先日の彼 とは違いますが、思春期の子どもへの関わり方で何より大切なのは、自分自身が自分自身の思春期時代についてどれだけ深く思いを巡らせることが出来るのか、これが重要なことであると感じた出来事がありました。それは、この様なことでした。
親御さんに連れられた、ある15歳の男の子なのですが、どうしても自宅から通うとのことでしたので集合場所を決めてお伝えするのですが、遅刻したり来なかったり致しまして、お迎えに上がると言ったことが続きます。
彼は小学校低学年の頃、同級生から背の低いことを馬鹿にされて以来、引きこもりがちになり無理に学校に連れて行くと、物に当たるようになってきていた。
この様な思春期の子どもさんを預かるのは初めてである事を伝えましたが、やはりどうしてもとの事で巡礼にお連れすることにしたのでした。
ご存じの通り、近畿三十六不動尊の巡礼では一番の札所から始めますと大阪天王寺からとなります。
天王寺駅で待ちあわせをするというのも、後で考えればアホなことをしたと後悔したもので、お寺さんに直接、それもお不動さんの前でと言うのをデフォルトにしたのです。
まあ、この様なことをしても時間通りには来てくれません。
そこで、電話をかけてみると、自宅にもおりませんでしたから、更に昼過ぎまで待っていても来ずに一日を棒に振った日もありました。
さて、冒頭に記した「思いを巡らす」というのは、子どもを変えようとする事ではありません。
例えば、この様な場合で言うところの、小生から迎えに行ったり、小生の方から待ちあわせ場所を変更したり、又或いは、朝ちゃんと用意が出来るように、親御さんに起こすことをお願いをしたり、駅まで送って見届けるようにしていただいたりする、いわば能動的で操作的な行動や思考ではないのです。
むしろ、こちらから一切の働きかけを行うのではないのです。
巡礼に向かうことのみを互いに確認して取り決めを行ったなら。
ただひたすらに、自分自身も自分の心の世界に目を向けるのです。
それまで小生は、彼をいかに巡礼に向かわせるか、指導して行くかに完全に囚われていて、彼と向かい合ったときも、きっと彼の無意識の範囲内ではこれらを見透かされていたのです。
だから自分は、自分の心に向かい合って見ること、素直に巡礼に対する心に向けようと、ひたすら互いに取り決めた時間に巡礼を開始することにしたのです。
つまり、彼が来ようと来まいと、自分から能動的に何かをして働きかけたりするのではなく、また、仕掛けておいてあとで叱るようなことを行うのでもない、小生が彼と向かい合うための巡礼です。
そして同時に夢分析も始めたのです。
彼との巡礼を行いつつも、夢のイメージに対して思い浮かぶことに注意を向けるようにしてみたというわけです。
勿論、最初は日常生活の延長のような夢ばかりで、たいした意味は感じませんでした。
ところがある日、この様な夢を見ました。
それは小生が彼と同年齢の思春期の少年として夢に登場する夢です。
大きなメロンをデパートで万引きをするのですが、あえなく警備員に見つかるのです。
夢の中では逃げて逃げて、寒い雪空の下でも逃げ回りますが、誰も助けてくれないのです。
走って、走って、行き止まりになって、警備員に捕まる、その寸前で目がさめました。
もちろん、小生にはこの様な過去はありません。
ただし、小生の家は小さな頃から共稼ぎで、学校から帰っても誰もおらずに寂しい思いをしていたことは事実でした。
夢から覚めて、その夢を思い出していると、その時の寂しさが身体に蘇ったのです。
不思議と、その時の足は冷たく、ほっぺたや手も冷たかったのも、記憶を蘇らせるには充分な材料でした。
この状態なら、大丈夫だ。
そう思って彼に会いに行くと、彼はじっと目を見てくれるようになった。
この時初めて、自分から思いを巡らせる事に気づかせていただいたのでした。